Party tonight, revolution tomorrow──『マリー・アントワネット』

石橋今日美

 「フランシスはエスキモーに氷を売ることもできるだろうよ」[*1]。『雨のなかの女』(1969)の配給をめぐるワーナーとの駆け引きに勝利したフランシス・フォード・コッポラの凄腕を、ジョージ・ルーカスはそう称えた。『地獄の黙示録』(1979)に対して、実際のヴェトナムはあんなものではなかった、という声に、監督はジョセフ・コンラッドの『闇の奥』の世界を描きたかっただけだ、と答えた。有名なパパのエピソードはこれくらいで十分だろう。「スミスという姓だったら、作品[『ヴァージン・スーザイズ』(1999)]が完成するまでに2倍以上の年月を要したかもしれないわね」と父の「恩恵」を自覚しているソフィア・コッポラ。少なくとも彼女は、映画作りにおけるある資質を受け継ぎ、新作『マリー・アントワネット』で『地獄の黙示録』の場合と比較しうる批判を受けた。映画制作が地獄と化すこともいとわない、独自のヴィジョンを何としてでも実現する頑強なエスプリに加え、それをサポートする、実のファミリー、プラス彼女の場合「モードな」人脈。一方、カンヌ国際映画祭という「ご当地」が誇るフェスティバルでお披露目された本作は、異様な期待感をあおると同時にブーイングを受けた。histoire(ストーリー)はあってもHistoire(大文字の歴史)はない(『リベラシオン』紙)といった歴史性の欠如が、テーマに敏感な仏批評家を中心に批判の的となった。だが、明らかに古典的な歴史劇や政治を描く意図がないフィルムに対して、それは肉屋にマカロンを買いに行くくらいの「見当違い」ではないだろうか(必要最小限の歴史的・政治的背景は、マリア・テレジア女帝役のマリアンヌ・フェイスフルの声で読まれる、娘への手紙によって理解される)。そもそも長編処女作は、アメリカ郊外のティーンに対する社会的な問題提起ではなく、ジェフリー・ユージェニデスの同名小説への監督自身の魅惑に根ざしており、『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)の主眼は、現代の日本と日本人の文化的・社会的考察ではなかった。年号や歴史的事件のクレジットが入るような歴史もののジャンルを拒む『マリー・アントワネット』は明らかに、居場所がみつからない、あるいは場違いなところに自身を見出す少女三部作の最終章として位置づけられる。

 冒頭、親密にキャメラがとらえる、ベッドでのびのびと目覚めるオーストリアの皇女(キルステン・ダンスト)。この場面は少女の幸福の永遠の喪失、「私」から「公」へのドラスティックな転換を予言する。以後、ヴェルサイユ宮殿での彼女のベッドと寝室、および政略結婚の本質的目的がかかった王と王妃のベッドには、マリーの戸惑い、孤独、哀しみが蓄積してゆく。同時に、権力の象徴としての「王の身体」ではなく、王位継承者たる青年(ジェイソン・シュワルツマン)のベクトルを誤った「雄々しさ」(狩り、鍵と鍵穴という性的なメタファーとも見えるものへの熱中)とマリーの身体性のコントラストが強調されるのも、ふたりのベッドにおいてである。

 王の身体ではなく、居場所を見失った少女の身体性が主要モチーフであることは、フランスに入国するときから明白である。オーストリアとフランスの国境でマリーは、頭からつま先までフランス製の洋服に着替えるセレモニーを体験する。ここですでに彼女の身体は、宮廷生活の形式的な無意味さの洗礼を受ける。毎朝寝室で、その場で一番位が高い人が下着からドレスまで持ってくるまで、彼女の裸体は大勢の視線と対峙することになる。慣れない宮廷生活にまつわるヒロインの退屈や倦怠が、そのまま観客の退屈として伝わるというありがちな「罠」をソフィアは、見事に回避している。特に王と同席の儀礼に縛られた朝食の場面は、作法の無意味さに朗らかに反応するダンストの演技によって、笑いさえ誘うことだろう。作品は、こうした煩雑な慣例を示すシーンだけでなく、宮廷内を移動するマリーをいかにキャメラでとらえるか、という点においても、ひとりの少女と未来の王妃の間で揺らめくマリーの身体性を一貫した手法で示す。豪華絢爛な長い廊下をちょこちょこと頼りない足取りで、ひとり彼女がこちら側に向かってまっすぐに進むとき、キャメラは彼女のバストショットを正面から映し出す。キャメラは彼女に優しく付き添うというよりも、その厳格な正面性によって、あからさまに、そして微小な見えないレベルで彼女の身体を拘束する権力を思わせる。逆に、例えば狩りに出発するルイ16世を見送った後のシーンのように、マリーがこちら側に背を向けて歩くとき、キャメラはまっすぐではなく、斜めに歩む彼女の背中を見送る。表情をうかがうことのできないマリーの斜めの歩み、彼女の身体が描くキャメラの軸からずれた斜線の軌跡は、幾何学的に構築された宮廷とフランス式庭園、彼女にとって居場所がない空間のルールに対する弱々しい抵抗なのかもしれない。

 行き場のない宮廷において、新奇なヘアスタイルの考案から、ドレスや靴、アクセサリーの莫大な浪費は、既存のドレスコードに対する、彼女自身の身体に帰属するモードのルールのマニフェストであり、ギャンブルとパーティー、フェルゼン伯爵(ジェイミー・ドーナン)との恋は、文字通りマリーの身体を一時的にであれ解放する。固定ショットでキャメラが素っ気なく描写する王家主催の華麗なイヴェントに対し、夜通し宴に興じたマリーが飛び出す、夜明けの庭園のフレッシュで清澄な光と空気、ヴィヴィッドにひるがえるドレスの裾。宮廷の外で革命の機運が高まりつつある中、マリーは最も「皮相な」部分を自らのルールで動かし、自身の身体に調和した特権的な時空間、いわば絶え間ない「パーティー」を生きるあり方をつくりだしてゆく。さらには、自らオペラに主演し、誰にも支配されない表象空間を立ち上げる。

 結婚7年後、世継ぎの出産を果たした王から送られたプチ・トリアノン宮殿によって、マリーはようやく真の居場所を見出す。しかし、このくだりにいたって、皮肉なことにフィルム自体は失速する感を否めない。トリアノンの庭で子供と戯れる映像は、『ヴァージン・スーサイズ』のフラッシュバックを思わせ、大切な子供はともすれば、マリーが手にした新たな究極の「アクセサリー」のような印象さえ与える。いかに無邪気な14歳の少女だったヒロインが、母、王妃としての責任感を引き受けるにいたったのか。作品後半、物理的・象徴的な身体性の変化に同調するはずのマリーの内面の変化は、見る者を説得するように掘り下げられているとは言い難い。

 この「空白」を残したまま、革命は勃発する。宮殿に押し寄せた民衆を前に、真っ正面から映し出されたバルコニーの王妃には、もはや当惑も頼りなさもない。彼女は覚悟を決めた凛としたまなざしで、無言で両手を広げ、頭を垂れる(ここでこれまでのソフィア・コッポラ作品においても、決定的な場面において、主人公たちは彼らの言葉をはっきりと口にするよりも、より雄弁な沈黙を選んでいたことを想起してもいいだろう)。この瞬間、マリーが権力の敗北をここでは王妃としての身体に引き受け、別世界に生きているだけでなく、共通の言葉を有さない民衆に、真っ向から全身を「捧げた」場面は、実際的なギロチンの場面に十二分にとってかわるものである。そして荒廃した宮廷内、崩れ落ちたシャンデリアのラストショットは、マリーの「パーティー」の終焉、その最期を克明に物語る。

 「ガーリー」という言葉でくくられがちなソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』は、ひとりの少女とその身体が、王政の権力の空間において、自らの時空間を求めるささやかな、しかし致命的な「闘争」を描き出すことには成功している。だが同時に、留保をつけたくなるのは、上記の場面をのぞいて、フィルムはマリーの少女の身体性にとどまり、母、王妃への移行を演出することに成功しているとは言えないからだ。自己のリアルな投影という意味ではなく、非常に個人的な興味や欲求を原点に「パーソナル」な映画作りを続けるソフィア・コッポラ。それだけに実際、昨年秋に母となった彼女の「少女三部作」のネクストが早くも楽しみでならない。



脚注

*1.
Peter Biskind, Easy Riders, Raging Bulls, Simon & Schuster Paperbacks, p. 90.

『マリー・アントワネット』 MARIE ANTOINETTE

監督・脚本・制作:ソフィア・コッポラ
撮影:ランス・アコード
音楽監修・音楽プロデューサー:ブライアン・レイツェル
原作:アントニア・フレイザー
出演」キルステン・ダンスト、ジェイソン・シュワルツマン、マリアンヌ・フェイスフル、ジェイミー・ドーナン

2006年/アメリカ・日本・フランス/123分

14 Feb 2007

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