さよならソフィア
──『マリー・アントワネット』

松井 宏

 カンヌでの上映前よりすでに映画館で見られた予告編は、それはもう最高で、いったいあれは誰が作ったのだろう、ニュー・オーダーの「エイジ・オブ・コンセント」とともに、たとえばキルステン・ダンストが半口開けてシルクのスカートをはためかせながら薄暗い宮廷の廊下を走っているのだが、もうそのショットだけが永久に続いてくれればいいと紛れもなく思ったものだ。では本編はといえば、端的に、予告編を越えはしなかったし、けっきょく『マリー・アントワネット』の最良のヴァージョンは予告編なのだと、残念ながら言わざるをえないのだった(どこの国のどの配給会社が作ったとしても同じ結果になる、と断言できる)。
 『ルイ14世の権力奪取』(1966)の派手さと狂気も『エルミタージュ幻想』(2002)の徹底した慎ましさも欠いたこのフィルムにおいて、ではいったい問題はどこに存しているのか。ソフィア・コッポラは1分以上の映画が撮れない? クリップしか撮れない? 宮廷という豊穣な舞台装置でいちどもまともなワンシーン・ワンショットがないこと? 映画の舞台としての宮廷とハイスクールとの差異をわかっていないこと? 物語を語ることに対するあまりの蔑視? すべては正しい。比較的大きな予算で仕立てられたドレスやコスチュームは「比較的大きな予算で仕立てられた衣服」以上ではないし、だから、このフィルムでもっとも素晴らしいショットとシーンが、オーストリアから異国の地に嫁いできた直後、アントワネット(キルステン・ダンスト)が着替えのためお世話係に寝間着を脱がされ裸になってゆく過程にあるのは当然のことか。すべてを脱がされ、胸を隠すダンストンをとらえたワンショットにだけ、ソフィア・コッポラにときたま訪れる恩寵、つまり、そこにいてはいけないものがそこにいるのだという、決定的に胸を締め付ける軽さが宿ったのだった。そして衣服を重ねるごとにこのフィルムは重くなってゆく。同じように、ソフィアが自らの永遠のユースカルチャーを重ねてゆけばゆくほどフィルムは重苦しくなってゆく。パンク〜ニューウェーブに乗って皆が舞う舞踏会シークエンスほど重苦しいものはないし、ぴかぴかのドレス&シューズ展示会にふとコンバースのオールスターが混じっているショットほど古めかしいものはない。そもそも全編に聞こえくる曲たち(ニュー・オーダー、ザ・キュアー、バウ・ワウ・ワウ、それにザ・ストロークスetc.)の音量があまりに小さいのは断じて看過できないわけで(この音の小ささは、他の映画館で見た友人にも確かめたので、どうやら上映施設の問題ではないもよう)、つまり「現代」の楽曲をコスチューム・プレイに馴致しようとするその態度は、やっぱりあさましいと言わざるをえない。だがどうして、古めかしくて白々しくて重苦しくて堅苦しくて、こんなに保守的になったのか? なぜなら彼女は自らのカルチャーを正当/正統化するためだけに映画を使ったからだ。自らのカルチャーを正当/正統化するためにマリー・アントワネットを利用したからだ。

 前作『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)から彼女がその映像と物語を費やすのは、自らという存在ではなく、たんに「ソフィア・コッポラ」というブランドに対してであり、だからここでのアントワネットが不死のイメージを纏わされるのは当然だろう。ここにあるのは決して少女の成長物語でもないし、孤独の先に死を見据える少女の物語でもない。ただ自らの死のイメージをなし崩しに排除し、自らの青春の終わりを永久に遅延させようと試みるあさましい少女こそが、ここにいる。処女の血も断首の血も、そしてあらゆる痛みも免除された不死の少女/王女。この少女という様態と、この王女という様態を、それぞれ決定的に変容させる出来事が『マリー・アントワネット』の説話上にないわけではない。前者においてはアントワネットが夫ルイ16世(ジェイソン・シュワルツマン)との性行為を成就させるとき(歴史上知られた話だが、アントワネットの欲望とは裏腹に、彼は彼女の身体に数年間ずっと触れてくれない)。そして後者においては、もちろん、民衆の手によるアントワネットの死。だがこのシネアストはそれらの瞬間に一滴たりとも血を曝さぬことで、物語ばかりでなく映像の力をも恥辱のうちに貶めてしまう。どうして一染みの血すら見せられないのだろうか? そこにあるのは、異和とともに触知されるべき新たな身体への恐怖であり、その恐怖の排除だ。血とともに少女に訪れるべき新たな身体、そして、血とともに王女に訪れるべき新たな身体──つまり民衆だ──、その両者をも隠蔽しながら、ただ許し難いワンショットのみで処理してしまうソフィア・コッポラ。  とはいえもちろん、別にそこに赤い血がなくたって構わないのだ。『楊貴妃』(1955)のラストで引きずられる裾のあの耳障りな擦音、あの白の不気味さ、そしてそれに魅惑されながら恐怖するキャメラの運動……。それこそ『マリー・アントワネット』に欠けていると、そういうことなのだ。

『マリー・アントワネット』 MARIE ANTOINETTE

監督・脚本・制作:ソフィア・コッポラ
撮影:ランス・アコード
音楽監修・音楽プロデューサー:ブライアン・レイツェル
原作:アントニア・フレイザー
出演:キルステン・ダンスト、ジェイソン・シュワルツマン、マリアンヌ・フェイスフル、ジェイミー・ドーナン

2006年/アメリカ・日本・フランス/123分

14 Feb 2007
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