禁じられた切り返し──C・イーストウッド『硫黄島からの手紙』

三浦哲哉


 硫黄島の戦いを描く2部作──『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』が公開されるだいぶ前、日本陣営を描く『硫黄島からの手紙』には日本人の監督が起用されるという噂が流れていた。では一体だれになるものかと、われわれ映画ファンはいろいろな妄想や期待を膨らませていたものだ。『亡国のイージス』(05)を撮った阪本順治が順当だろうか。いや、黒沢清を起用してイーストウッドと対峙させてみたい。でもやっぱり日本の現戦力に見合った佐藤純彌を出すべきなのか。いや、なにがなんでも北野武を引っ張りだして、イーストウッドとの夢の対決を実現させたい、『Brother』(05)でアメリカ人相手の抗争も経験済みだし、「ファッキン・ジャップくらい喋れよバカヤロウ!」(そしてドドドドとアメリカ人を容赦なく射殺)がまた聞ききたい! などと無責任な言葉が費やされていたものだが、結局はイーストウッドが『父親たちの星条旗』に続いて、日本側も監督することになった。
 本当に誰か日本人監督が起用されていたらどうなっていたかはわからないが、しかし、日本人を日本人が描き、アメリカ人をアメリカ人が描くという発想をとってみると、こうしてイーストウッドが両方を撮ってしまった後は、いかにも安直だったように思われてしまう。アメリカ人にはアメリカ人の、日本人には日本人の言い分がある、それはそれで正論である。複数の視点があり、だから正義がひとつではないこと、これも理解しがたいことではない。例えば、ヴェトナム兵の立場に身を置いてみること、あるいは、ネイティヴ・アメリカンの立場に身を置いてみること。これも良識派の映画人が率先して試みてきたことだ。ただ、そうした複数の視点があるのだとして、それらをいかにして交差させるかを考えることは、まったく別のことであるし、またはるかに難しいことではないだろうか。だから、イーストウッドが日本側を描く後編をも監督するというときに、最も興味を引かれるのは、日本人にも日本人の目線があったという正論ではなくて、両者間の視線の劇が、どのようにして成立するかである。

 さて、公開初日にいそいそと映画館へ向かうと、そには長蛇の列ができている。二宮効果か、客層も幅広い。そしてどことなく、列なす人々の顔がいつになく上気しているように思われる。あのイーストウッドが、日本で、日本の俳優と組むことの話題性はやはり大きかった。渡辺謙、二宮和也、加瀬亮、みんな大丈夫か。中村獅童はズレていないか。とくに予告編で過剰なテンションを見せていた渡辺謙、全編あのままなのだろうか。まずはそんな不安と期待で劇場はいつにない熱気を帯びていたのである。

 そして開幕。探検隊のような日本人たちが現代の硫黄島で「危ないぞ!」などと口にしながらなにやら発掘作業をするドキュメンタリー風の導入部分を経て、60年前の戦地へ。そして主演の二宮の登場である。「オレは掘っている……」。海岸でツルハシを使う二宮の華奢な姿に、朴訥としたナレーションが重ねられると、ものの数分しかたっていないにも関わらず感無量といった気分になる。二宮の晴れやかな演技ぶりにいたく感銘を受けたということもあるけれど、この穴がしばらくすれば虐殺の舞台になること、というより『父親たちの星条旗』ではまさにこの穴で多くの人間が惨殺されたことが、否応無しに思い返されるからだ。彼らは死に向けて着々と準備している。「……ひょっとしてオレは墓穴ほってんのか」。自身の運命への無関心を飄々と表明する二宮の口ぶりに、のっけからいたく感動してしまうのだった。

 日本の俳優陣の演技はどうだったか。「墓穴」などという熟語も駆使されていることから、日本語へのアダプテーションも問題ないのだろうと思いきや、二宮扮する日本兵のキャラクターがどうにもアメリカ臭い。鬼上官相手にこっそり憎まれ口をたたき、拗ねたポーズをとってみせるのだが、口をついて出るセリフがまるで昔のハンフリー・ボガードぐらいニヒルで、「○×洋画劇場」の日本語吹き替えのような違和感がある。日本人がシナリオを書いたらこうはならないというかんじなのだ。だがこれはセリフだけのことではない。『硫黄島からの手紙』の全体が、いわゆる「日本的」なるものへの写実にはまるで拘泥せずに、ただアメリカ的というしかない明朗な演出で撮られている。「こんな島、アメ公にくれちまったらいいんだ」と暴言を吐くと、その背後には鬼上官がまんまと控えていたり、あるいは、作品の後半だが、民家の犬を殺せという上司の理不尽な要求を受けた若い憲兵が、命令に逆らって標的を外して打ち、「殺しました」と上司のところに戻った瞬間、その犬が「ワン」と吠えてしまう、など、あらゆるシークエンスが的確すぎるほど的確な演出でテキパキと組み立てられている。穴の中で便器の代わりに使われていたバケツからは、逆光で白い煙がモワーと立ちのぼっていたり、その便器を崖に落っことして拾おうとしたら目の前には大艦隊が迫っていたり。あるいは、伊原剛志扮するバロン西が颯爽と馬を走らせる場面では、いつもの鬼上官が馬にひっかけられてスコーと転倒して面目を潰したり。あらゆることが一目瞭然なのだ。渡辺謙に関しても、この「洋画」的風景にぴたりと収まっていて、まったく違和感がない。そしてもちろん、渡辺扮する栗林はかつてアメリカに遊学し、文字通りアメリカナイズされて帰ってきた日本人だ。アメリカ的な日本人たち。というより、彼らはアメリカ人の鏡像なのだろうか?

 ともあれ『硫黄島からの手紙』は、過酷には違いないのだろうが、しかし牧歌的にも見える労働がひとつ、またひとつと単純に重ねられつつ進んでいく。穴を掘り、飯を食い、眠り、起床する。そしてここにはアメリカ軍の影はなく、まるで戦闘など永遠に起きないのではないかという錯覚すら頭をもたげる。開戦の瞬間を目指してジリジリと緊張を高めていくような演出がほとんどなされない。地下要塞が築かれ、戦闘の準備が整っていく過程もはっきりとは示されない。通常であれば、迫り来る敵艦隊の姿を挿入し、接近のサスペンスを導入すべきところなのだろう。しかし、本作にアメリカ軍の視点は描かれない。だから戦争映画であるにも関わらず、戦術上の駆け引きも焦点にはならない。『父親たちの星条旗』が逆にそうだったように、『硫黄島からの手紙』は徹底的に敵側の視点を排除し、一方的に日本軍の兵士だけを描写する。前編『父親たちの星条旗』で描かれた細部がこちらにもつながるのかと思っていたが、そのような対応関係もないに等しい。例の鬼上官が兵士たちに「衛生兵を真っ先に撃て」と指示する場面があって、そこでは前編との脈絡が生まれるのだが、基本的には不気味というしかないアメリカ軍の不在の中で、『硫黄島からの手紙』の前半はあれよあれよと進行してしまう。


 戦闘は唐突に始まる。いつのまにか現れていたアメリカ軍が爆撃を浴びせ、次に海岸を静かに上陸してくる。渡辺謙の双眼鏡越しに、遠巻きに眺められたアメリカ兵たちが、次々と砂浜を埋めていく。渡辺は発砲命令を出さずに待機する。銃を構える日本兵。無防備に陸地へと進軍するアメリカ兵。十分に引きつけてから、おもむろに渡辺が号令を出すと、堰を切ったように一斉掃射が浴びせられる。地下要塞とトーチカに隠れた日本兵が敵を次々と殺していく。向かってくるアメリカ兵はこちらに照準を合わせることすらできず、次々と死んでいく。この間、視線は決して交わらない。そしてここから延々と展開される銃撃戦は、その「切り返し」[1]の不在によって途方もなく悲愴なものとなる。

 人間と人間が相対峙して(ときには名乗りあってから)互いを殺しあうという前時代的な戦闘とは異なり、近代戦の特徴は「見ること」と「殺すこと」の一致であるといわれる。銃器による無差別殺人としての近代戦では、相手をみとめた瞬間に、即、殺傷行為がなされる。見ることと殺すことは限りなく同時なのだ。「敵兵と目が合うと、殺せなくなる」という(たしか大岡昇平の小説の中の)兵士の言葉があるが、しかし「殺さないから、目が合う」のだとも思われる。この躊躇の間にしか、戦場で「切り返し」が成立することはないし、また、「切り返し」を避けることによってしかひとは殺し合うことができない。それに対して、西部劇であれば、この「見ること」と「殺すこと」の間の距離、その融通無碍なヴァリエーションによって、変化に富んだ劇空間が造形される。ところが硫黄島でそのようなことは起こらない。見る、即、殺すの営みが延々と、ひたすら単調に繰り返されるだけだ。そしてもちろん、イーストウッドが『許されざる者』(92)で英雄譚としての西部劇にとどめをさしたことを想起しないわけにはいかない。過去から召還された伝説の殺し屋が演じるラストの壮絶な無差別殺人に先立つ場面で、モーガン・フリーマン演じる年老いたライフル打ちが、標的に狙いを定めた後に「やはり撃てない」といって首を横に振るところがあった。しかしいま描かれているのは、もはやこの躊躇が生きられる余地のない世界だ。

 日米兵士の視線が出会った瞬間、どちらかが必ず死ぬ。したがってここでは「切り返し」が禁じられている。禁じられた「切り返し」を軸として、両軍はひたすらにすれちがい続ける。平坦に続く戦闘シーンを呆然と眺めながら、これがつまり硫黄島2部作の構造であることに思い至る。『父親たちの星条旗』が描くアメリカ軍と、『硫黄島からの手紙』の日本軍は、同じ戦闘の中にいるにも関わらず、別のフィルムの中にそれぞれ分離されており、観客はそれを同時に見ることができない。例えばトーチカの攻防をめぐっては、まず『父親たちの星条旗』において、アメリカ軍が火炎放射器で穴の中を焼き払い、手榴弾を投げいれて相手を全滅させるというプロセスが描かれ、次に『硫黄島からの手紙』ではそれがそっくり反転したかたちで繰り返される。両者はただ死においてしか出会うことができず、ふたつのフィルムはこの死の両側でかろうじて互いを支えあっている。
 海岸線での白昼の攻防の後、戦闘は次に深い闇のなかに移行する。すり鉢山を追われた日本兵は、本隊に合流すべく暗黒の中を逃走する。どこかわからない場所で火花が飛び散り、見えない敵に殺される。どの観客も、日本軍が壊滅することはあらかじめ承知しているわけだが、その承知していることがただ粛々と進行していく。ここでも肝心なのは、闇夜の中で敵の不可視性がますます強調されている点だ。

 ただし、例外的に日本兵とアメリカ兵との「切り返し」が成立する場面がある。穴の中に立てこもった伊原(バロン西)の小隊が、瀕死のアメリカ兵を捕虜にする場面がそれだ。とどめを刺しましょうと進言する部下を制して、伊原は彼を手当させる。そしておもむろに英語で「どこから来たんだ(Where are you form)?」と親密な言葉をかける。「海軍基地のことじゃない、あんたのホームタウンのことだよ」。さらに自分がダグラス・フェアバンクスと友達なんだと、はにかみながら自慢すると、横たわった米兵は「嘘でしょ」といいながらいつのまにか心を開き、そして私的なメッセージを残すのだった。横たわった米兵と彼のかたわらに佇む伊原が的確なフレームで交互に捉えられ、ここで初めて日本兵とアメリカ兵の間に確かな視線のやりとりが成立する。だがそれでも、この米兵は間もなく死ぬのであり、結局のところ、倒れた後のつかの間の時間しか両者の視線が交わることはなかったのだというしかないだろう。やがてその伊原も倒れ、じりじりと追いつめられた日本軍は食糧も尽きて、最後に捨て身の攻撃に打って出る。ついには渡辺も致命傷を負い、自死を決意する。いまわの際に二宮がかけつけると、渡辺は最後の願いを託す。それは自分の死骸を見つからないよう、地中に埋めることだった。二宮は冒頭と同様に、最後もまた穴を掘り、渡辺の身体を隠す。最後までアメリカ兵はこの司令官の姿を見ることがない。


 硫黄島2部作は、「相手が見えない」という奇妙な現実のうえに成り立っている。目と目が合ったそばから相手を殺害するという、異常な営みそれ自体が、ふたつの映画の構図そのものである。いうまでもなく、ここにあるのは、互いの言い分を認めてシェイクハンズというような楽天論ではない。むしろそうした幻想が潰える場所で、「許されざる者」同士の途方もない殺し合いが再現されたというべきではないだろうか。また、その点で、これはまぎれもなく製作者スピルバーグの前作『ミュンヘン』(05)の続編ともいいうる作品である。『ミュンヘン』の主人公は、イスラエルのスパイとして、アラブ人テロリストを捜索し、その目で相手を確認したそばから次々と殺していく。だがやがて自身が追われる立場になったときにこの構図は反転し、見られること=死ぬことの恐怖が、彼を神経症に追い込む。
 よく言われるとおり、硫黄島2部作は、60年前の戦争を題材にとりつつも、現在のアメリカに対する「映画」の側からの応答である。つまり、ブッシュ父子が先導してきた正義の捏造、そしてメディア上で敵の姿を抹殺する「イメージの戦争」に対する批判として捉えることができる。しかし、この映画が掲げるのは口当たりのいい理想論ではない。逆に、アメリカによる──というよりも大日本帝国も含めたすべての帝国による「イメージの戦争」を、その最後の帰結にまで押し進めた映画であるということさえできるだろう。捨て身の映画なのだ。

『硫黄島からの手紙』 Letters from Iwo Jima

監督・製作:クリント・イーストウッド
製作:スティーヴン・スピルバーグ、ロバート・ロレンツ
脚本:アイリス・ヤマシタ
撮影:トム・スターン
キャスト:二宮和也、渡辺謙、加瀬亮、伊原剛志、中村獅童、裕木奈江

2006年/アメリカ/2時間21分

[脚注]
1.切り返し
 ふたりの登場人物をカメラで交互に捉え、両者の目線の動きによって、そのふたりが同一空間内で向かいあっていることを示す技法。

22 Jan 2007

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