Héroïne for two ──『白と黒の恋人たち』

石橋今日美

 映画は記録する。時間の流れに逆らうことも、取捨選択することもなく、キャメラはオートマティックに事物を写し撮る。映画はまた攪乱もする。現実世界の何気ないディテールも、機械的な無反省さをもって記録され、スクリーンに投影されると、日常的な視線を戦かせる非現実性をまとうことがある。さらに投影のシステムとフィルムという支持体に起因する映像の物質的な脆弱さ、不安定さは、容易に幽霊的なものを出現させるだろう。メカニカルなミメーシス、写実的リアリズムとまやかしの眩惑、イリュージョンとしてのリアリティー。よく知られた映画の本質的な二面性は、さらに映画体験を想像的な記憶の織物として生きる観客の特性も加わって、フィリップ・ガレルの作品と極めつきの共犯関係を取り結ぶように思われる。ガレルのフィルムは彼の実体験に根ざしているが、私的な生のドキュメントをこれみよがしに主張することはないし、うんざりするような私小説文学の内面の吐露に転じることもない。映画作家の過去と現在、愛する者たちの記憶は、ある種の無時間性のリアリティーを獲得し、登場人物たちはエモーションの切迫感とロマネスクな壮大さを体現する。

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 例えば『秘密の子供』(1979)のラスト。長らく音信不通のままだった主人公ジャン=バチストとエリー。空白の時間を性急に埋める様子もなく再会したふたりが、カフェにいると、不意に彼女は約束があるから、といったん外に出て、画面奥の何者かに会いに行く。後景の男女のシルエットと、そのまま中で待っているジャン=バチストを含めた情景を、キャメラは、カフェの外からガラス越しのロング・ショットにおさめる。その画面にありありと映し出されているものは、反射像を含めて、すべてそこに現存するものと人々だ。しかし、再びジャン=バチストの前に着席して、いつまでも一緒にいてほしい、見捨てないで、と哀願する彼女は、いつのまにか「あちら側」に行ってしまった存在ではないだろうか? そもそも作品中に何度も挿入される、光と影の明滅としての彼女のイメージは、すでにファントマティックなものを想起させていた。最新作『恋人たちの失われた革命』(2005)でも、68年5月の夜の路上に実際に放たれた火は、温度というものを感じさせない白い発光体として、何時間でも凝視したくなる欲望を誘うし、阿片ととりとめのない会話、まどろみに費やされる革命の後の時間は、ノスタルジックな甘美さからほど遠く、午前4時のフェット(パーティー)の現代の若者たちの姿とはっとするほど重なり合う。映画の起源から継承されたとも言える両義性を、乱暴な図式化を承知で、フィクションと現実とすれば、その両極自体が、おそろしく残酷な無邪気さ(劇中劇のタイトルでもある原題『Sauvage innocence』)に昇華されてゆくのが、『秘密の子供』の私生児的兄弟とも言える、『白と黒の恋人たち』(2001)ではなかったか。

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 若き映画監督フランソワ(メディ・ベラ・カセム)は、ドラッグでスキャンダラスな最期を迎えた恋人キャロル(ニコの記憶は観客からも払拭されない)からインスパイアされ、アンチドラッグの新作の撮影準備に入る。彼は街角で女友達と一緒に歩いていた女優志望リュシーと出会い、激しく惹かれあうようになる。ガレル作品において男女がたちまち恋に落ちる場面は珍しくないが、ここでの「決定的一瞬」も見る者を陶然とさせる説得力を持っている。カフェのテーブルをはさんで座ったフランソワとリュシー(ジュリア・フォール)、その女友達は簡単な自己紹介を始めるが、お互いの名前をたずねるとき、もうひとりの女性は第三者として、あっさりとフレームの外に切り捨てられる(視覚的かつ心理的に)。フレーム内の時空間は文字通りふたりの世界として閉じられ、フランソワとリュシーのリヴァース・ショットで、彼女を見つめるフランソワのまなざし(新作の主人公ルイ・ガレルのダークな瞳とは対照的に、メディ・ベラ・カセムの澄んだ瞳は、光を受けて刻々と表情を変えるプリズムのように、好奇心や欲望、愛おしさを雄弁かつ繊細に反映する)に観客も未来のヒロインを確信する。セーヌに対してサンジェルマンとほぼ対極に位置するメトロ、キャトル・セプトンブル駅で落ち合いキスをして、同じ駅に戻ってくる恋人たちが、夕闇まで何をしていたのか、一切示されない。物語性に真っ向から逆らうのではなく、リニアな時間の単位に還元されない夢や恋の時間のリアリティーを強調する、最近作で顕著な省略の手法は、ここでも最大限の効果を発揮している。けれども、切り返しショットと壁際のキスで綴られる映画作家とヒロインの関係は、実際に映画作りの現場へと移っていく中で、もはや恋の始まりの無邪気さ、何でも成し遂げられそうな多幸症的気分に充足することはできない。

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 作品の秩序を揺るがせる「必要悪」が、鏡張りのカフェの片隅の背後から、ぬっと姿を現すプロデューサー、シャス(ミッシェル・シュボール)であり、彼は製作資金提供と引き替えに、ヨーロッパを横断するドラッグの「運び屋」をフランソワに依頼する。ドラッグに反対する映画がドラッグの売買によって養われ、監督が猟犬のように(Chas「シャス」は、仏語でchasse「狩り」と同音)獲物を主人のところに持ち帰る自滅的な皮肉、フィクションの「善意」や「モラル」を脅かす取引は確かに、フランソワとリュシーの共犯性を脅かし、安定した切り返しショットの構図は崩壊する。だが、それ以上に問題なのは、君のおかげで作品のヴィジョンが明確になった、君こそ僕の映画のヒロインだ、と熱く語るフランソワは、リュシーをミューズに白紙から新作を構想しているのではなく、麻薬が彼から奪った女性のモデルに新人女優を見出したに過ぎないということだ。監督の片腕マルコが、舞台となる家は別にアムステルダムでなくても、どこにでも見つかると主張しても、フランソワは頑として過去の実在の舞台に固執する。それほどまでに過去の愛に取りつかれながら、主演女優=モデルとの新たな愛、その証としてのフィルム制作に生きようとするフランソワが犯した決定的な「裏切り」は、ロケ先に密かに持ち込んだキャロルの2枚のポートレートだった。偶然、それを見つけてしまったリュシーは、彼が自分に求めていたのがマリー=テレーズという架空の人物ではなく、キャロルの面影、さらには身代わりのヒロイン像であることを悟る。それゆえに、彼女はマリー=テレーズという難役をつかみきれない焦燥感ではなく、「私はキャロルじゃない」、という切実な自己否認、彼女の狂気、暴力性を体現することの現実的な不可能性、絶望感から逃れるためにHéroïneに溺れ、フランソワの知らないうちに、ドラッグで命を落とした実在のHéroïne=キャロル(仏語ではヒロインとドラッグのヘロインは同音・同字異義語)へと致命的な変貌を遂げてゆく。そもそもほとんど化粧気のない処女風のキャロルと濃いアイラインのキャロルの2枚のポートレートは、リュシー自身のbeforeとafterを予見している。ここで、エドガー・アラン・ポーのショート・ストーリー『楕円形の肖像』を忘れることは難しい。絵画に描かれる女性が生気に満ちて画家の愛するモデルに近づけば近づくほど、モデル自身はやつれ、絵の完成と同時に息絶えてしまう。さらにここでは、メフィスト的プロデューサー、シャスまでもが、撮影に入る前の夕食の席で、リュシーそっくりの肖像画をナプキンの上に描いていた。彼女は疑いなく「呪われた」モデルの系譜にあるヒロインなのだ。

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 寝室さえも別々にしてしまうフランソワとリュシー。どうしたの? 私のせい? 物思いに沈んでいる相手に交互に彼らが同じ質問をするとき、すでに状況は修復不可能になっている。撮影に参加する女性たちは、ドラッグをめぐるコミュニティーを形成し、そこにシャスが「役作りのために」とリュシーに直接白い粉を渡すようにさえなる。白い粉は、リュシーがただ会いたいという理由だけでロケ先に呼んだ、元彼オーギュスタンにまで回る。「運び屋」の監督以外の者が、何らかの形でヘロインを手放せなくなっている事態を、ガレルは感傷的な悲劇にも、自虐的な教訓話にも仕立てない。ふたつのヒロイン/ヘロインをめぐって増幅し融合する現実とフィクションの両義性は、例えば密室でリュシー/マリー=テレーズが、ドラッグの売人から大きな包みと彼女へのプレゼントにと、小さな包みを受け取る場面でも明らかだ。前後のコンテクスト抜きに提示されるこのショットにおいて、実際にリュシーがドラッグを入手しているのか、それとも実在した女性が体験したかもしれない一場面なのか、判断できないサスペンスが、演じられるシーン自体が持つ緊迫感と揺るぎない相乗効果を発揮する。実際には映画のワンシーンであったと後続のショットで分かっても、観客は素朴な安堵感には包まれない。さらにフィルムはフィクションと現実の二重性から映画内映画の形式を超えた生々しいものを引き出す。作品の終わり近く、駅の外で座り込むリュシーの顔の前で「Sauvage innocence 31/1の1」と書かれたカチンコ(撮影監督の欄には「名匠ラウール・クラール」の名が)が鳴らされ、前進トラヴェリングが彼女の虚ろな表情をとらえる。直ちにアングルを変えて、トラヴェリングのレール(冒頭の第1ショットから何度も登場するモチーフ)と撮影クルー全体をとらえたロング・ショットで、再び「31/1の1」のカチンコがかかり、同様の演技、同じキャメラの動きが繰り返される。その後、フランソワが主演女優の元に駆け寄り、体調を気遣った後、「31/1」のテイク2が撮り直されるわけだが、異なるフレーミングのふたつのテイク1は、監督ガレルのフィクションの記録なのか、それともフランソワの演出なのか? あるいは映画という無生物の機械(亡霊のまなざし?)に、リュシーが真っ向から魅入られた瞬間だったのか?
 いずれにせよ、フランソワが撮影の合間に与えたわずか5分の休憩の間に、リュシーはオーバードーズで命を落とす。仮面舞踏会のような一幕から撮影が始まる直前のショットでは、シャスの白く冷たい陶製の洗面台に注射器が転がっていたが、映画の最後には彼女の硬直した青ざめた肢体に斜めに突き刺さっている。ちょうど冒頭のショットで、フランソワがアパルトマンの下のレールを見下ろしていた視線の角度を踏襲するかのように。

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 ポーのショート・ショートには、芸術と死、創作活動に全身全霊を注ぐ者は死を犯す、という美術批評家の教訓が下敷きになっていた。だが、登場人物の自殺で終わる作品が多いという批判に対して、「自殺するくらいなら、自殺についての映画を作る方がいい」と映画美学校の講演で断言し、さらに「アーティストはマゾである必要はない」と語ったガレルは、死によって芸術を安直に崇高化しない。「生き残ってしまった者」として、その強靱な意識をもって映画を撮り続ける彼は、今はなき愛する者たちの記憶や生の断片を、(自身に対して、関係する人々に対して)残酷に召還しながら、愚直なリアルストーリーに仕立てるどころか、現実の記録とフィクションの混乱/融合という映画という表象芸術に許されたイノセンスさで映画を撮り続ける。そんな彼のフィルムは、どんな現実の光、夜の闇も届かない、私たちの記憶の中の特権的な場所を、いつのまにか密やかに専有してしまう。


『白と黒の恋人たち』  Sauvage innocence

監督・脚本:フィリップ・ガレル
脚本:マルク・ショロデンコ、アルレット・ラングマン
撮影:ラウール・クタール
録音:アレクサンドル・アブラール
音楽:ジャン=クロード・ヴァニエ
出演:メディ・ベラ・カセム、ジュリア・フォール、ミッシェル・シュボール

2001年/フランス・オランダ/35ミリ/モノクロ/117分

21 Dec 2006

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