ジャンの部屋──『愛の誕生』

寺岡ユウジ

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『愛の誕生』
 フィリップ・ガレルの『愛の誕生』(1993)は、ベッドルームやカフェや自動車の中などの声を張り上げる必要のないような静謐な空間で、囁くように言葉を投げかけあう幾人かの、もう若くはない男女の顔が印象的なフィルムだ。カメラは、彼らの傍らに置かれ、じっくりと被写体を凝視する。簡素なモノクロームの画面に拡大して映し出される、どこかくたびれた眼、たるんだ肉、目尻に寄る無数の皺。それらが徴となって、フィルム上で描かれるわけではない、彼らが生きてきた時間の経過のひろがりが、重みとして感知される。フィルム上で描かれるわけではない、彼らの肉体のこれからの腐蝕の進行が、予兆される。経過と予兆の浮上によって、フィルムに刻まれた現在進行形の顔が、さらに深いものとして、迫ってくる。プライヴェートな空間での、気を許した友人や恋人との語らいのシーンが多く、彼らの表情が武装解除をしているからか、みつめていただけなのに、実際に一緒に時を過ごしたかのような親密感が、沸いてくる。

 中年の俳優のポール(ルー・カステル)は、若い女たちを恋する衝動と、妻とひとりの息子とあいだに家族という制度的な関係を形成しようとする意思の間をいったりきたりする。  若い恋人に去られたポールは、カフェに妻のファンションを呼び「よりを戻そう」と提案をする。「私を好き? 愛がないならムダだわ。ひとりでやっていけるし……」「家族だろ。家族こそ一番大切なんだ」[*1


 店を出て、冬の夜の舗道をふたり並んで歩きだす。

 ポールが、「不思議だな」と、不意につぶやいて、見上げる。

 ファンション「何が?」

 ポール「あそこ。ジャンが銃で自殺した部屋だよ。不思議だ」


 ポールの見上げた視線の先にあるはずの部屋の外観は、映し出されない。彼の視線の向こうに、あのユスターシュの部屋が、実際に存在している……。いや、もしかしたら、まったく違う場所でロケーションされているのかもしれない……。パリの街のことをなにも知らないわたしにはわからない。しかし、ガレルが、そこに、役者たちの身振りによって、「ジャンの部屋」をあらしめようとしているのは、事実だ。


 1981年11月5日未明。パリの自室で、ジャン・ユスターシュは、ピストル自殺をした。


 ガレルとユスターシュ。ヌーヴェルヴァーグ以後のフランス映画界にあらわれた、10歳の隔たりのあるこのふたりの映画作家は、60年代のなかごろから親交を結んでいたという(このフィルム以前にも、ガレルは、1984年の作品、『彼女は陽光の下で長い時間を過ごした』を、ユスターシュにささげている)。
 様々な方法論的技法的な相違はあれど、ふたりの姿勢に共通しているのは、自らが作る映画と人生を接近させること、映画の中に人生を持ち込み、映画の力によって人生が動かされることを志向する点のように思う。
 ガレルはインタビューで、「私の映画と人生は密着していて、それを分け隔てて考えることはできない」[*2]と答えているし、何作かのユスターシュ作品に出演しているジャン=ノエル・ピックは、「彼は映画を参照し、映画に移し換えられることのない人生に耐えられなかったんです」[*3]と『ぼくの小さな恋人たち』(1974)の監督について述べている。
 フランソワ・トリュフォーが書いた、ヌーヴェルヴァーグの宣言書とも呼ばれる1954年に発表された批評「フランス映画のある種の傾向」の中に、「作家は作品をつねに支配することはできない。彼はときには造物主たる神でありうるが、ときにはその被造物にすぎない」[*4]というフレーズがあるが、このふたりは、ヌーヴェルヴァーグの監督たちよりもさらに、それを先鋭的につきすすめて、フィルムを廻し、人生を歩んでいっているように、みえる。

 ユスターシュのフィルモグラフィーにおいて、それがもっとも強く出来事としてあらわれたのは、1973年にフランスで公開された『ママと娼婦』ではないだろうか。
 50ミリレンズしか使用せずに撮られた均質な深さの画面の連鎖。16ミリのハイコントラストの白黒画面を舞う荒れた粒子。ふたりの人物が向かい合う場面では「切返し」という紋切型的技法の単調な反復。切り詰められたシンプルさ、というか貧しさに統一された画面、形式と、人物たちの果てしないおしゃべりのことばがこちらがわを触発してくるスクリーンには映し出されない出来事の数々の豊穣との協和と不協和。219分の上映時間を椅子の上で過ごし、尿意を我慢することと、椅子に下ろした尻の床ずれ的痛みを伴わなければ鑑賞することができず、画面から迫ってくる悲痛な感情と、それら痛苦とが、わかちがたく肉体的、精神的な記憶に食い込んでくる傑作(わたしは、はじめて渋谷のユーロスペースで鑑賞したとき、途中の休憩時間にハードコンタクトレンズを落としてしまい、眼球を充血させながら、装着されているほうの片目をジッと凝らしてこのフィルムを見終えたので、前記ふたつに加えて、その眼の痛みと切り離してこのフィルムのことを想い出すことができない)。
 年上の女マリーに養ってもらっている若い男アレクサンドル。彼は、カフェで、民族衣装に身を包んだ魅力的な女性、ヴェロニクをナンパする。アレクサンドルは、ヴェロニクを自宅に連れ込み、3人は、ひとつの部屋で共棲をはじめる。やがて、年上の女は、毒を飲んで自殺を図る。ヴェロニクは、妊娠する。
 実際にユスターシュは、年上の妻と若い愛人と一緒に共棲していた、という。しかもその若い愛人とは、このフィルムでヴェロニクを演ずるフランソワーズ・ルブランだった。  回想において時間的な距離のできた人生と映画を関係づけるのではなく、なまなましい現在進行形の同棲生活の分身を、あまりにも無防備にフィルムの上に現出させてしまうこと。そして、映画の虚構の中で、同棲する女を殺してしまうこと。実際、それは、悲痛な出来事を引き起こした。ユスターシュの妻が実際に自殺してしまったのだ。

 「"マリーが自殺してしまった"というユスターシュの悲痛な声を聞いたときには、声も出なかった。"自殺したのか……"と、まるで確認するかのように、つぶやいただけで、あとはなにも言えなかった」[*5

 もしかしたら、彼は痛みを被ることを望んで待っていたのではないか、とわたしは勝手に夢想する。作品という不可思議なもの。それは、自分との関係を容易に確定できないものだ。それがどんなものなのか、それをつくった当の本人自身がいちばん知りたいがわからないものだ。作品によって、人生を掻き乱し、また自分を翻弄させる。そこで作品が撒き散らした傷によって、そこで自分が知った痛みによって、作品が確かにこの世界に、この人生の中に、存在しているということを自覚したかったところがあったのではないか、と。そして、それによって自分が存在している、という事実をも感得したかったのではないか、と。もちろん、勝手な夢想なのだけれども。
 しかし、彼のバイオグラフィーを読んでみると、そこここに自傷的な傾向をみつけることができるのもまた事実。


 1981年11月5日未明。パリの自室で、ジャン・ユスターシュは、ピストル自殺をした。


 「自殺の模様は、廻しっぱなしのヴィデオ・カメラに撮られていた」[*6]という。
映画というメディアと映画監督との距離は、文字というメディアと作家との距離よりも、かなり遠い。作家の絶筆のように、映画監督の最後に撮った映像を確定するのは、大抵、困難なことだ。
 ユスターシュは、自らの姿を、最後の映像の被写体に選び、フィルムにではなく、ヴィデオという、個人的所有・私的使用を前提とした映像機器の「小さな画面」の中にみずらかを縁取った。
 彼の行為は、映像の力と人生の力が相互に交差し作用しあった生を終わらせるための、極限的なパフォーマンスのようにも、思える。
 フレームの中で自らの生を終えること。
 自分が消滅してもこの世に残る映像のなかにみずからの姿を顕示し、残しておくことと、自分を傷つけ、消滅へと至ることを、同時に起こすこと。
 にせものの鉄砲と、低温の特殊火薬と、赤ペンキの血と、役者たちの死んだふりと、によって織り成される、生者たちのためのおもちゃとしての映画。その彼方を示すようなドキュメンタリー映像を成立させることと、自己自身の手によって自己の人生の彼方へと行くことを、同時に起こすこと……。

 いや、わたしは、事実にからめて、カメラを廻しもする自分の「死」にかんする夢想を露悪的に語りすぎてしまったかもしれない。
 ルー・カステル演ずる『愛の誕生』のポール氏のように「不思議だ」とつぶやくところにもういちどもどってみることにするべきかもしれない。

 ジャン!





[脚注]

*1.
『愛の誕生』のセリフは寺尾次郎翻訳を参照した。

*2.
「フィリップ・ガレル」, 鈴木布美子『映画の密談 11人のシネアストに聞く』所収, 筑摩書房, 1994年.

*3.
「関係者の証言 ジャン=ノエル・ピック」細川 晋訳, 遠山純生編『ジャン・ユスターシュ』所収, エスクァイアマガジンジャパン, 2001年.

*4.
フランソワ・トリュフォー「フランス映画のある種の傾向」山田宏一訳,『ユリイカ』21巻16号[1989年12月臨時増刊号 総特集 ヌーヴェル・ヴァーグ30年]所収, 青土社, 1989年.

*5.
山田宏一「映画はわれらのもの」『友よ映画よ わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』所収, ちくま文庫, 1992年.

*6.
吉田広明「ジャン・ユスターシュの生涯」, 遠山純生編『ジャン・ユスターシュ』所収, エスクァイアマガジンジャパン, 2001年.


『愛の誕生』 La Naissance de l'amour

監督・脚本:フィリップ・ガレル
脚本:マルク・ショロデンコ
撮影:ラウル・クタール
録音:フランソワ・ミュジー
音楽:ジョン・ケイル
出演:ルー・カステル、ジャン=ピエール・レオー、ヨハンナ・テア・シュテーデ

1993年/フランス・スイス/35ミリ/モノクロ/94分
21 Dec 2006
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