あなたの心はカメラなの──『秘密の子供』

三浦哲哉

1.写真の中のマジシャン──「あなたがこれを見るのはわかっていました」

 日本のある有名なマジシャンが登場する広告写真で、次のようなものがあったのをご存じだろうか。サングラスをかけたその男が写真の中央でちょうどカメラの方を凝視し、そこに「あなたがこれを見るのはわかっていました」の文言が添えられる。つまりこの写真は、それ自体が預言的中のマジックなのだ。わたしはこの広告写真を電車の窓上広告として見かけたのだが、確かに、この広告をふと見上げた瞬間、このマジシャンの預言が成立してしまったかのような印象を受けた。つまり、予告通りに「わたしはこれを見てしまった」。
 もちろん、人目を引くための他愛のない冗談ではあるのだろうが、しかしここにはやはり一抹の不可思議があるとも思う。あらゆる写真映像がその本質として持つ不可思議な特性が利用されていると思うのだ。

 あたかも預言が的中したかのような印象が生まれるのはなぜか、改めてそのタネを考えてみよう。それはまず第一に、ここで言われている「あなた」をめぐる錯覚のためであると思われる。「あなたがこれを見るのはわかっていました」と言うときの「あなた」は、本当の(ひとりひとりの)「わたし」を指すわけではない。たまたまこの写真をみた誰もが「あなた」でありえるのであって、要するに、このマジシャンは、そのような匿名の「あなた」を漠然と指しているに過ぎない。ただ、写真の前に立ち、彼に見つめられるように感じるやいなや、わたしたちは自分を「あなた」として受け入れてしまう。そのときふたつの「あなた」は短絡し、預言が成立する。
 第二に、この文言の時制をめぐる錯覚がある。「あなたがこれを見るのはわかっていました」と、過去形で書かれているわけだが、実際のところ、この発話行為は常にテキストが読まれる「現在」においてしか発動しない。広告の中からこのように語りかけるマジシャンが、結局どの時制にいるのかといえば、彼もまた常に「現在」にいると考えるべきなのだ。凝固した写真イメージの「現在」に彼はずっと閉じ込められている。しかしわたしは、彼があたかもどこか特定の過去から語っているように思いこんでしまう。それはまず、テキストが過去形で書かれているからであり(「……わかっていた」)、より本質的には、この映像がまさに写真映像であるという理由で、(シャッターが押された瞬間としての)過去を指し示すからである。映像の本体──このマジシャンの実体が、前もって予見していたかのような印象はこうして生まれるのだ。
 したがって、この預言的中のマジックは、ふたつの「あなた」のすり換え、ふたつの時制のすり換えによって可能になるといえる。だからこれらを混同しさえしなければ、預言が成立したことにはならない。わたしは実際のところ、彼に呼びかけられているわけではないし、見つめられているわけでもない。ただ、そんな気がしたまでのことだ。印画紙にプリントされ、凝固した中年男の像として、ただこの広告写真を漫然と眺め過ごすこともできるだろう。しかし、そう思いつつも、ある時またふとこの写真を見上げ、サングラスの奥にあるだろう彼の眼差しを感じるやいなや、再び錯覚が頭をもたげる。「あなたがこれを見るのはわかっていました」。必然的錯覚……。[1]

 あるいは、かつて共に過ごしたひとの写真の場合ならどうだろうか。他ならぬわたしがかつて撮影した写真の中で、このひとがこちらに向けてよく知った眼差しを向けている。そのような写真を見るとき、このひとの眼差しは、一体、どのような時制にあるだろう。わたしが写真を手に取って見つめる「現在」だろうか、それとも撮影された「過去」だろうか。ひとつの眼差しが、「過去」と「現在」を貼り合わせてしまったのだというべきだろうか。過ぎ去ることなく、不変の「現在」にある眼差し。ただしどこか遠くからやってきたものでもある眼差し。わたしにはもはや割り切れない。そして写真を見るたびごとに動転する。
 さらに、これが8ミリカメラなどで撮影された動くイメージであれば、その所在はいよいよ判明でなくなる。動くことで像の迫真性が増すからではなくて、それが「どこから来るのか」がますまわからなくなるからだ。動く映像──すなわち映画は、スクリーンに投影されるやいなや再び過去へと消えてしまう。映画の上映には、数分なり数10分なりの持続があって、その中でさらにイメージは過ぎ去り続け、一瞬も止めることができない(8ミリ映写機が事故かなにかで止まってしまうと、その箇所のフォトグラムはライトの高温で溶解してしまう)。映画の支持体を特定することは難しい(しいていえば映画館という装置の全体であろう)。無論、映画は物質としてのフィルムロールの中に書き込まれているわけだが、しかしそれはあくまで潜勢態としてである。つまり映写機の歯車にかけられるまでは、いわば過去形のままに保管されている。写真映像が常に不変の「現在」に留まり続けるのとは異なり、映画はスクリーンを通り過ぎるまでは「現在」には存在しないし、通り過ぎた一瞬の後は、再び「現在」から過ぎ去る。


2.セルロイドのヒロイン──「この瞬間を忘れないで」

『恋人たちの失われた革命』
 「この瞬間を忘れないで」、あるいは、「わたしから離れないで」と訴えるヒロインがフィリップ・ガレルの作品にはたびたび登場する。新作『恋人たちの失われた革命』でも、パリの舗道を散歩中に、その恋が永遠に続くことを願ってか、あるいは近い将来における別離を予感してか、恋人を見つめつつ女はそのように訴えている。そしてここでも似たような動揺を覚えてしまう。「この瞬間」とは、どの瞬間のことを指すのか。作品の舞台となった1968-69年のいつかだろうか。撮影現場でヒロイン役のクロティルド・エスムが現実にこのセリフを口にした瞬間のことか。あるいは、すべてのガレル作品のモチーフだという、彼自身とニコとの実生活の中で、実際にニコが似たようなことを言った瞬間のことか。あるいは結局のところ、個々の観客が映画館でまさにこのセリフを聴取した瞬間なのか。ともかくも、このように発せられたメッセージが常に「現在」へ届けられることだけは確かだ。フィルムが映写機にかけられる度ごとに、わたしは「この瞬間」を想起する。
   作者本人が述懐するように、フィリップ・ガレルの作品の多くは、彼のかつての伴侶だったニコの記憶と共にある。ガレルは1969年に彼女と出会い、1979年の別離まで共に7本の映画を作る。それ以降に撮られた『秘密の子供』(1979)、『ギターはもう聞こえない』(1990)や『白と黒の恋人たち』(2001)は、すべてガレルとニコが営んだ実際の生活から着想されているという。そしてふたりの関係そのままに、これら作品の主人公も、映画監督とその女優として設定されている。「忘れないで」というメッセージは、常に女優から映画監督に向けられるのだ。『秘密の子供』のアンヌ・ヴィアゼムスキーも言う。「いまだけはわたしのそばを離れないで」。そして彼女の願い、あるいは命令は、男がカメラを携えた映画監督であることによって、確実に成就する。少なくとも、このメッセージを記録したフィルムが物質的に残存し続ける限りは、彼女を忘却することはできないし、離れることもできない。物語の中で、男と女は、ガレルとニコが実際に経験した通りの別離を反復するのだが、彼女の呼びかけ、眼差し自身は、絶対記憶の呪縛のように残存し続ける。
 また、別離に先立って演じられる出会いの場面にさえも、同様の感覚が付きまとう。なぜ、目と目が合っただけで、彼らが恋に落ちたことがわかるのだろうか。極めて繊細な視線の演出があることは疑えないが、しかし、彼らが恋に落ちることがいつも「決定的」であるように感じられるのは、やはりこの恋が本質的に想起された恋であるからだと思われる。例えば写真アルバムをめくって、他人に過去の物語を聞かされるときのように、この恋はこれから始まるにも関わらず、すでに終わってもいて、つまり不可逆的な過去の刻印を帯びているがゆえに「決定的」なのだ。女の眼差しを見つめ返すことは、同時に、想起することでもある。

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『秘密の子供』
 「まちがいなく私は、そこに写っているものの非現実性を飛び越え、狂ったようにその情景、その映像のなかへ入っていって、すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているものを腕に抱きしめたのだ」(ロラン・バルト『明るい部屋』より)[2]

 ガレルの映画もまた一面においては、私的な写真アルバムの様相を呈する──『秘密の子供』が撮影されたのと同年にロラン・バルトがカイエ・デュ・シネマのために執筆していた『明るい部屋』で語られているような、一人称のイメージ体験がここでも焦点である。個人のアフェクション(情動=受苦)から出発して書かれたバルトの特異な写真論は、彼の友人でもあった美術史家のジャン・ルイ・シュフェールによって、ある意味で引き継がれ、同じくカイエ・デュ・シネマからその翌年に発表された『映画の普通の人間』によって映画の文脈へと置き直される。さらにジル・ドゥルーズの『シネマ2──イマージュ=時間』が、シュフェールの議論を継承していることも指摘することができる。いずれもその中心にあったのは、イメージ体験におけるアフェクションの再評価であり、そのとき感覚化される「時間」を巡る問いであった。彼らの思考の冒険をガレルがどこまで意識していたかは知るよしもないが、『秘密の子供』が撮られたのは、ともかくもこうした時期である。そして偶然であるにせよ、彼らが書物の上で語ったことをその同時代においてもっとも敏感に反映したのがガレルの作品だったように思われる。


3.自動人形の恋──「あなたの心はカメラなの」

 ただし、バルトそのひとが、イメージ体験におけるアフェクション、そして時間の錯乱とを、映画の中には基本的にみとめていなかったことは付け加えておくべきだろう。なぜなら、バルト曰く、「映画は『写真』の狂気を飼い慣らす」からである。「少なくとも、虚構を用いる劇映画、まさに第七芸術と呼ばれるものはそうである。映画は人為的に狂気をよそおい、狂気の文化的記号を提示することはできるが、その本性からして(その映像の本質規定からして)、決して狂気となることはできない(……)映画の視像は夢想に属するものであって、追想性幻覚(エクムネジー)ではないのだ」[3]。ただ、この論述には例外がある。フェリーニの『カサノヴァ』に登場する自動人形(オートマトン)がそれであり、バルトもここにだけは耐えがたくなるほどの「憐れみ」の念を覚えると告白している。

「カサノヴァが若い自動人形の女と踊りはじめると、とつぜん、不思議な麻薬の効果があらわれはじめたかのように、私の目は凶暴で甘美な一種の鋭い眼力をさずけられた。私には細部という細部がはっきりと見え、もしこう言ってよければ、私はそれを骨の髄まで味わいつくして感動で気が動転した。その平たい婦人服の下にはわずかな肉体しか存在しない、とでもいうかのような、女のシルエットのか細さ、薄さ」[4]

 どうしてよりによって人形なのだろうか。バルトはこれ以上のことを説明していないのだが、それはおそらく、写真映像が不変の「現在」に常に留まりつづけるのと同様に、映画においてもただ自動人形だけは、歯車が回っている間、ひたすらイメージの「現在」に留まり続けることができるからではないだろうか。過去をもたない自動人形のイメージは、極めて律儀に映写機の歯車と同調し、それきりはかなく消えてしまうのだ。そしておそらく、回転速度の異なるカメラで撮影されたサイレント映画のギクシャクした動きも、バルトが『カサノヴァ』の自動人形に感じたのと同質の「憐れみ」を喚起しうる。あるいはクレーアニメの塊や、すっかり紋切り型になってしまったとはいえ、あらゆるスローモーション映像にも本来、同様の力が備わっているのだと思う。
 ガレルが1983年に撮った『自由、夜』の冒頭には、モノクロームの粗い粒子の中、ひとりの女性がミシンをかけるショットが挿入されている。このミシンは、映写機の歯車と直接同期しているような印象を与える。フィルムと一緒に回転するミシン。そしてこのショットは、スクリーン上の人間が、実は映写機の動力によってのみ動いているという真実を思い起こさせる。そもそも、カメラの中で回転するフィルムロールに巻き取られた時点で、あらゆる人間は自動人形へと変換されているはずなのだ。そのことが忘れられてしまうのは、バルトが示唆しているように、演出/編集の工程で彼らに生き生きとした、しかし偽の外観が与えられるからである。彼らは溌剌として意味に満ちているが、突き刺すような愛惜の念を喚起することは決してない。ここから逆に、スクリーン上のイメージに再びオートマトンの尊厳を回復させるという課題が生じる[5]。例えば、戦前の前衛作家ジャン・エプスタンは俳優たちに、痙攣するほど緩慢な動作を強いた。あるいは、ロベール・ブレッソンは、俳優にあらゆる演技を禁じて、ひたすらモノトーンで話し、それどころか何も考えずにただ身体を動かすような特殊な演出を実践した。『秘密の子供』の主演俳優ふたりがブレッソン映画の出身であるのも偶然ではないだろう。アンヌ・ヴィアゼムスキーは『バルタザールどこへ行く』(1967)で、アンリ・ド・モブランは『たぶん悪魔が』(1977)でブレッソンにスカウトされ、それぞれカメラの前で自動機械のように動く訓練を施されている。

 ただし、『秘密の子供』でガレルがしたことは、俳優を偽の外観から解放し、ときに自動機械のように演出してみせるということだけではない。彼がしたのは、見る主体をも、自動機械にするということだった。これが、ヴィアゼムスキー扮するエリーの有名なセリフの意味でもある。「あなたの心はカメラなの(Tu as une caméra à la place du ceour)」。まず字義通りに理解しよう。「あなた」、すなわち映画監督ジャン=バチストの目は、事物をカメラのように記録する。奇妙なことだが、実際にカメラを構えてはいないときでさえも、彼が見る光景は、不意にセルロイドの粗い粒子に変換し、歯車に合わせて明滅する。例えば、スワン少年を見つめていると、不意に、彼の後ろ姿が、かつてのサイレントフィルムのような早回しで再生されてしまう。つまりジャン=バチストが見る光景は、フィルムの光景である。現れては消えていく登場人物たちが、歯車に巻き取られつつあるフィルム上でのみはかなく持続しているに過ぎないことを、ここで観客は意識せざるをえない。これは記憶喪失の主題と表裏一体をなしている。作中で、ジャン=バチスト自身が精神病院に監禁され、電気ショック療法のために記憶喪失に陥っているのだ。彼の心はイメージを転写することはできても、統合し保管することができない。そのためにイメージは断片のまま過ぎ去ってしまう。そしてやがて、これらがジャン=バチストの見た光景なのかどうかさえ観客にはわからなくなる。なにしろ、彼が見ているはずのない光景(彼自身が写る光景)までが、すでにフィルムのフィルムとして焼き付けられているのだ。だとすれば、マリーが「あなたの心はカメラなの」というときの「あなた」をジャン=バチストに特定できるだろうか。
 むしろ、ここで述べられている「あなた」とは、フィルムを想起する主体としての「あなた」を指すのではないか。そもそもこのセリフは、ふたりが同時にフレームに入っているにもかかわらず、あきらかにOFFの声として外部から聞こえている。その点、「あなた」という言葉は必ずしもジャン=バチストを指すのではない。そして映像の受け取り手、あるいは想起の主体こそが「あなた」と指されているのだとすれば、この「あなた」は、「わたし」でもありえる。すると、命題はいとも簡単に反転する。すなわち、「わたしの心はカメラである」。映画の登場人物としてのジャン=バチストではなく、想起する主体としての「わたし」の心がカメラである。錯覚、あるいは錯乱ではある。しかし『秘密の子供』を見るという行為によって、このような印象を抱かないでいることは難しい。なぜなら、端的に述べて、『秘密の子供』の映像の多くの部分が、すでに二度、撮影されているからだ。実際にどのような技術で実現されたのかはともかく、ここでは一度撮影された映像が、スローモーションなりクイックモーションなりの過程を経て、再度、焼き付けられている。文字通り、『秘密の子供』はフィルムを撮ったフィルムである。すでに撮られたフィルムを改めて見返す(=想起する)主体の場所がこうして設定され、観客は直ちにその場所へ送られる。『秘密の子供』は、撮影されたイメージが、すでに想起されたものとして現れる作品である。そして、こうした錯覚に捉えられている間、わたしは、しばしばサーチライトのように露骨に登場人物にあてられている照明が、映画館の映写機を直接の光源としているように感じる。

 ここでは見ることがすでに想起することであり、「あなたの心はカメラなの」の意味もここにある。「わたし」は、歯車に巻き取られるがままに束の間だけ現れては消えていく彼らのイメージを、想起する=すでに見ている。「いまだけはわたしから離れないで」という嘆願は、このようにしてかなえられるのだ。

 映画の終盤で、ジャン=バチストはエリーについて次回作の構想を語っている。またしても、ある男女の物語。上の空で聞く女に対して、男は滔々と内容を語り、ラストシーンについてただ次のように説明する。「そしてふたりは永遠と消える……」。しかし「永遠」とは彼岸のことではなく、フィルムが回転するたびに再生されることを約束された「現在」──常に繰り返される「現在」のことである。そして1968年のことも、1979年のことも、あるいは1789年のことでさえも、観客はその「現在」において、想起するだろう。

 そして最後に、イメージが復活する場所が、常に変わらずスクリーンの白の上であることについて触れておきたい。例えばガレルがニコと出会う前後、1969年にキリストの受難劇を題材に作った『処女の寝台』でも、ヒロインは純白の装束を身にまとっている。以来、常にガレルの女性たちは白シャツや白いパジャマ、あるいはなにか民族衣装のような白い布切れを着せられ続けている。宗教的なコードが問題なのではない。ただ彼女らが、砂浜、曇り空、岩石、氷の白、アパートの窓の露光過多の白、ベッドのシーツの白と重ねられるたびに、スクリーンの白布へと容易に溶けて消えてしまうことに、その都度、深い当惑の念を覚える。しばしば逆光でブロンドの髪は純白に輝き、顔と背景の境界自体が判然としがたい。文字通り、彼女らは透明になる。そのとき彼女らが身にまとっているのは、スクリーンの白布そのものであることになるだろう。スクリーンの布にくるまれたフォトジェニー=ミイラ女たち。




[脚注]

1.
以上の箇所は「ウィークリーマンション東京」の車内広告の記憶をもとに書かれている。マジシャンとはMr.マリックのことである。この広告のアイディアはマリック氏本人によって提出されたものだという。

2.
ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳, みすず書房, 1985年, 142頁.

3.
上掲書, 14頁.

4.
上掲書, 143頁.

5.
上掲書, 141頁.

『秘密の子供』 L'Enfant secret

監督:フィリップ・ガレル
脚本:フィリップ・ガレル
製作:フィリップ・ガレル
撮影:パスカル・ラペルーサ
出演:アンヌ・ヴィアゼムスキー、アンリ・ド・モブラン、シュワン・リンデンマイアー、フィリップ・ガレル

1979年/フランス/35ミリ/モノクロ/92分
21 Dec 2006

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