五月の白鳥たち──『現像液』

葛生 賢

 暗闇の中に子供(スタニスラス・ロビオル)の姿が見える。彼に投げかけられた光は後ろの壁に円を描き、彼の影をくっきりと映し出す。彼は戸棚の上に敷かれた小さな白いマットレスに腰掛け、小さな足をぶらぶらさせている。突然、ドアが開かれ、眩いばかりの光に満ちた部屋から男(ローラン・テルジェフ)が入ってくる。漆黒の空間に穿たれた白い矩形。キャメラはその時、子供と男を同時にフレームに収めるが、男がさらに前に踏み出し、しゃがみこむ動きにつれてティルト・ダウンし、子供は画面から排除される。その代わりに女(ベルナデット・ラフォン)の姿が画面に現れる。ぼんやりと白く浮かび上がるシーツの前に跪いた彼女の顔にもやはり光が当てられており、彼女はどこか虚空の一点を凝視して身じろぎもしない。男は手前にあったグラスを彼女の口元まで運び、その中の液体を飲ませようとするのだが、彼女がそれを飲もうとしないために、液体はきらきらと反射しながら彼女の胸元に滴り落ちていく。次に彼は彼女に煙草をくわえさせ、マッチを擦り、火を点そうとするのだが、何度試みても煙草に火はつかない。今度は煙草を2本繋げたような長いそれを取り出し、一方を彼女にくわえさせ、他方は自分でくわえる。男はその姿勢のまま、マッチを擦り、火をちょうどその長い煙草の中央に近づける。この試みは成功し、ふたりの煙草に火が点る。再び男は女にグラスの液体を飲ませようとしてから、彼女の手を取り、一緒に部屋から出ていく。ドアの外で彼らは一旦左右に別れて歩き出すが、その白く光り輝く部屋にはベッドが置かれており、ふたりはそれぞれの側からベッドに入り、前方を向いたまま凝固する。ドアが閉じられ、再び画面を闇が支配する。子供に当てられた光を除いては。

 これは、20歳の新人監督フィリップ・ガレルが「1968年5月」に撮った『現像液』[1]の冒頭のシークェンス・ショットの描写だが、この作品はそれが撮られた日付から安易に連想されがちな高揚した雰囲気をいささかも留めておらず、むしろ寒々とした感触がこの映画の表層を支配している。このことは、この作品の約30年後に『恋人たちの失われた革命』(2005)を撮り、その冒頭で圧倒的な強度に満ちた「1968年5月」の「市街戦」のシーンを演出することになるこの映画作家にしては奇妙な事態に思われる。しかしこの『現像液』は五月革命下のパリではなく、ミュンヘンで撮影された。この事実は、このモノクロ、サイレントの映画を「1968年5月」という符丁で理解しようとする者を深く戸惑わせる。また「1968年5月」の最中にガレルらが撮影したニュース映画『アクチュア1』(1968)も今では消失してしまって見ることができない。まるで映画作家としてのガレルは「1968年5月」とすれ違っているかのようだ(やはり同時期にパリを離れて『ペサックの薔薇の乙女』(1968)を撮ったジャン・ユスターシュとともに)。したがってこの映画に「1968年5月」的なところがあるとしても、それはあらかじめ「1968年5月」というコンテクストをこのフィルムに投影することによってではなく、ひとまずそれを括弧にくくり、作品の肌理にくまなく視線を投げかけた果てに見いだされるべきものでなければならない。

 上述のショットが示しているように、男、女、子供からなる三角形は、同時にフレームに収まることはできない、というのがこの映画における「ゲームの規則」である。たとえ一時的に三者が同じ画面に収まることがあっても、必ずそのうちのひとりは画面から弾き出されることになる(一種の椅子とりゲームのように)。実際、これに続くのは、手すりにつかまりながらゆっくりと階段を降りていく女とその後からついていく男の仰角ショット、その階段の裏側でひとりあぐらをかいている子供のショットという画面連鎖になっていて、階段の表裏で男女と子供が分断されている。この3つのショットがアヴァン・タイトルを構成する。続くシークェンス・ショットもこの作品の中でとりわけ素晴らしいもののひとつである。トンネルの入口の上に光に照らし出された男が座っている。キャメラがティルト・ダウンすると長いトンネルの中でハサミを手にした子供が捉えられ、一定間隔で明りの灯されたその中をゆっくりと子供が歩いていくに従って、キャメラも前進移動でその後を追う。トンネルの出口には女がいて、彼女は杭に後ろ手に縛りつけられている。子供が彼女にしがみつくと強い光が彼らに当てられる。その光の中を子供がハサミで彼女の縄をといて解放し、その周りを回りながら彼女の縛られていた手首に接吻する。再び子供は彼女にしがみつく。ここにオイディプス的なものを見てとることは容易い。しかしそのような精神分析的な図式化を拒むような力がこの作品には働いているように思われる。そもそもこの作品の男女の間には性的関係を窺わせるものが極めて稀薄である。例えば、この作品には森に挟まれた道を登場人物たちが歩き、それを後退移動で捉えるショットが夜と昼の二度現れるが、その長いシークェンス・ショット(そう、この映画の大半はシークェンス・ショットによって構成されている)の途中で男女はふと歩みを止め、白いシーツを足元に敷くのだが、彼らはそれを前にしてなすすべもなく立ち尽くすか、跪いて天に祈りを捧げるしかすべがない。あるいはすでに述べたように冒頭のショットで男女は同じベッドに入りはするが、カタトニー患者のようにそこに凝固したまま、互いの身体に触れあおうとはしない。以後、何度か登場する寝室のベッドは子供が横たわるためのものであり、男女は彼の周りを囲むだけだ。唯一の例外として、男が道路脇の電話ボックスで何やら相手に向って大袈裟な身振りで述べ立てた後、地下道に降りていって、そこに敷かれた白いマットレスの上で女と抱き合うショットがあるのだが、しかしそれとても冒頭のショットで提示された「ゲームの規則」の応用に過ぎず、そこで3人は、女と子供、子供と男、男と女、という組み合わせで、それぞれ残りのひとりをマットレスの上から排除するゲームをしているかのようで、決してその抱擁は愛の行為に行き着くものではない。そんな男女を残して子供は反対側の出口から地下道を後にしてしまう。少なくともこの時期のガレルにあっては、ベッドとは愛の行為が営まれる装置ではなく、互いが互いを疎外しあう冷たく不毛な場なのである。それが「愛の誕生」の場となるには、ニコとの運命的な出会いと別れという試練を乗り越える必要があったのかもしれない(ニコとの出会いはこの作品の半年後である)。

 しかしこの「聖家族」はどこに向っているのだろうか。有刺鉄線に囲まれた草むらの中、身を伏せながら前進していく彼らを横移動で捉えた素晴らしいショットがある。戦争映画の一場面を思わせるそれは『自由、夜』(1983)の襲撃シーンにも漲っていたガレルの活劇的資質を窺わせるものであるが、彼らは見えない敵から逃げているのか、あるいは敵を追っているのか。ひとりが先に進んで安全を確認し、手で合図して後の者を呼ぶ。そしてさらに後の者を。戦争映画で何度も見たかしれないこの身振りがこのシーンでも繰り返されるが、ここで面白いのは、男、女、子供の順で進んでいった後、さらに子供はキャメラに向って合図を送り、キャメラがそれに反応して前進する(!)点である。彼らの前には石切り場が広がっていて、彼らはそこを下り、底にある小さな小屋に入ろうとするが入れない。さらに彼らがそこから崖を登っていく様をキャメラは崖上から円形移動して充実した長回しで捉えるのだが、その途中で子供は置いてきぼりをくってしまう。

 あるいは次のような場面。向かい合った男女がテーブルの上に顔を伏せている。その間を子供がはしゃぎまわり、テーブルにごろんと横になる。すると男女は席を立ち、子供を残して次々と部屋を出ていく。壁には赤ん坊の人形が吊るされている。ショットが切り替わり、子供は無人の小劇場の客席にいる。彼の正面の舞台に掛けられた黒い幕が開かれると、そこで男女の諍いが演じられる。子供は楽しそうに足をぶらぶらさせてそれを見ている。ここではオイディプス的なドラマが文字通り「上演」されている。もっともここでは子供はこのドラマの俳優であるとともに観客ではあるが。
(なおガレル自身が回想しているように[2]、このドラマが上演されている劇場はストローブ=ユイレの『花婿、女優、そしてヒモ』(1968)の冒頭に出てくる小劇場によく似ている。R・W・ファスビンダーら「アクション・テアーター」のメンバーが出演するこのフィルムもガレルの作品同様、「1968年5月」にミュンヘンで撮影されている。ストローブ=ユイレ、ファスビンダー、ガレルを結びつける偶然の糸)

 大人たちが演じるこうした悪循環から抜け出すことはできないのだろうか。ある時、子供は寝室でスプレー缶を見つける。それまで手にしていた赤ん坊の人形に代わって、彼が常に持ち歩くようになるのがこのスプレー缶(殺虫剤かヘアスプレーのように見える)である。新しい玩具を手に入れた彼は嬉しそうにあたりにスプレーを噴射してみる。まるでその噴射が彼を前に押し進めるかのように。森の中でスプレーを手に座る子供。男女が彼を追いかけてくるけれど、キャメラとともに座ったまま子供は宙を浮遊し、あたりを一周した後、元の場所に戻ってくるが、すでに男女は諦めたのか立ち去っている。この夢魔的なシークェンス・ショットを境として、次第に男女からの子供の「別離」の主題が奏でられ始める。それは男女の死を連想させるイメージと結びついているのだが(軍事基地の鉄条網に縛られたり、草むらに倒れた彼らの姿)、と同時にそれらのイメージがベッドの上でうなされる子供の姿に媒介されている点を見逃してはならない。彼は単に悪夢を見ているだけなのだろうか。だとしたらこの作品の最後に結晶化する次のようなイメージは夢の中の出来事に過ぎず、彼は依然としてオイディプス三角形に囚われたままなのだろうか。

 橋の上の男女から離れて子供は夜の小川を伝って湖に出る。すでに日は昇っている。彼は砂浜に落ちていたフライパンを頭に載せて、波打ち際まで近づく。すると白鳥が一羽、二羽と波に漂ってやってくる。やがてそれらは水面を埋め尽すだろう。子供の欲望の流れが白鳥の群れを呼び寄せ、そこでふたつの欲望の流れがひとつに交じりあう。この僥倖としか思えないリュミエール的な美しいショットでこの映画は締めくくられる。ここには希望がある。白鳥たち、それは新しいものの到来を告げる徴でなくて何だろうか。



脚注

1.
この作品の原題『Le Révélateur』には「啓示者」と「現像液」の2通りの意味がかけられているが、ここでは通例にしたがって『現像液』と呼ぶことにする。

2.
Jean-Marie Straub Danièle Huillet: conversations en archipel, Milano, Mazzotta, 1999, p.29.


『現像液』 Le Révélateur

監督:フィリップ・ガレル
製作:アンヌ・エリア、シルヴィナ・ボワッソナス
撮影:ミシェル・フルニエ
出演:ベルナデット・ラフォン、ローラン・テルジェフ、スタニスラス・ロビオル

1968年/フランス/35ミリ/モノクロ/サイレント/62分
21 Dec 2006

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