第7回東京フィルメックス・レポート

編集部

Introduction

 11月17日から26日の日程で「第7回東京フィルメックス」が開催された。アジア映画の先端から、日本映画のクラシックまで幅広いパースペクティヴを持って映画を発信する同映画祭は、例年にもまして刺激的なプログラムを展開した。本年のテーマは"映画の未来へ"。東京フィルメックスが切り開こうとするものへの期待とともに、上映されたアジア最新の作品たちをリポートする。


オープニング作品

 映画祭の幕開けを飾るにふさわしく、昨年より東京国際フォーラムに場所を移して開催されるようになったオープニング作品の上映。メイン会場の有楽町朝日ホールの倍近い座席数があるとはいえ、話題作のチケット入手はなかなか難しく、当日券を求める人々の長い列ができる。幸運にもチケットを手にした人々は、さらにゲートの前で開場を待つという困難を進んで引き受ける。その場の晴れやかな期待感と興奮の高まりの先に待っているのはもちろん、今年のオープニング作品、ジャ・ジャンクーの最新作『三峡好人』だ。

『三峡好人』
 険しい山々にはさまれた渓谷の街・奉節は、三峡ダム建設のために数ヶ月後には水の中に沈む運命にある。古い歴史を持つこの街にダム建設計画が持ち上がったのは毛沢東時代。以来数十年に渡って取りざたされてきたこの事業計画もここでようやく実現しようとしている。住民は立ち退き・移住を強いられ、残された家屋は次々と取り壊されていく。
 『三峡好人』は、奉節という街が解体していく光景に小さな家族の解体を重ね合わせてみせる。そこから浮かび上がってくるのは、街を訪れた主人公が音信不通となった配偶者の消息を求めて時間を費やすという、ほんの些細な物語だ。街であれ家族であれ、共同体が崩壊に向かって突き進んでいるとき、ジャ・ジャンクーはその光景を感傷にしめらせることなどは一切せず、むしろ、生気あふれる瑞々しい色彩によってそれを描き出す。建物の解体作業が巻き起こす土埃と騒音は、途方もなく充実した"ノイズ"として映画に活気づいているし、役者たちの身体中から噴き出す汗がそれに呼応した輝きを放つ。"Still Life"という英題を持つこの映画にあっては、静かに動きを止めようとしているものでさえも、尽きせぬ生命感にあふれているかのようにみえるのだ。
 上映後のティーチインに現れた監督によれば、この映画の空間設計にあたっては山水画に描かれた山々のイメージをベースにしたという。映画の中にも、“元"紙幣に描かれた渓谷の画と三峡の実風景を見比べてみるというエピソードがあったが、街全体が水没した後に現出する風景が、誰もが知っている山水画と同じものにほかならないという皮肉がここにある(さらにいえば、「イメージの増幅と伝播」というジャ・ジャンクーの作家的主題がここにある)。ジャ・ジャンクーはそれに少しもひるむことなく、後戻りできない歴史に向けてカメラを廻し続けた。『三峡好人』は郷愁のうちにとどまるのではなく、リアリズムに躍動する傑作である。


東京フィルメックス・コンペティション

 今年ノミネートされた9作品には、フィルメックスのニューフェイスと常連たちの新作が揃う。アジアの新人監督の紹介にとどまらない層の厚み、独自の選択眼で熱心に通う観客の期待に応えてみせるという余裕が漂うプログラムだ。東京フィルメックスの独自の「カラー」といったものがすでに定着した観がある。
 製作された本国でさえ一般公開のめどが立たないような作品までも、積極的にノミネートに加えていくプログラム方針はきわめて果敢なものだが、なかには見る者に訴えかける力に欠けている作品が含まれていることも否定できない。演出の巧拙がすべての評価基準とはなり得ないが、撮影の段取りが散漫で映画の焦点が見失われてしまっているような作品(『ワイルドサイドを歩け』、ハン・ジエ監督)、役者とカメラとの距離がいつまでも曖昧で何ごともうまくフレームに収まっていない作品(『幸福』、小林政広監督)など、見ている方がもどかしくなってしまうものがあった。また、すでにヴェテラン監督の風格あるバフマン・ゴバディによる『半月』は、老人となったクルド人ミュージシャンたちがイラクでコンサートを開催すべく国境越えを試みるという政治性鋭いロードムーヴィーだったが、上映前に壇上に上がった監督本人の口から「この映画の80%はプロデューサーの意見を受け容れた部分だ」とか「どうせイランで上映禁止になるのだったら泣く泣くカットした歌と踊りのシーンを残しておけばよかった」といった言葉がもれた。作品はそんな言い訳を必要としない出来であったのだから、見る前から観客の欲望を萎えさせる言葉は慎むべきだと感じられた。

『天国へ行くにはまず死すべし』
 コンペティションで最優秀作品賞を受賞したのはタジキスタンの監督ジャムシェド・ウスモノフによる『天国へ行くにはまず死すべし』。インポテンツの悩みを持つ20歳の青年が、その問題を解消すべくいろいろな女性を訪ね歩く旅の物語。娼婦とベッドをともにしようが、ある夫婦の間男になってしまおうが、まったく変わらない主人公のストイックな表情がたまらなく素晴らしい。タジキスタンという地理、現代のフォークロアに回収されない主題を選んだ点も成功を収めている。

『クロース・トゥ・ホーム』
 無冠に終わったけれどもコンペティション中もっとも瑞々しい精彩を放っていた1本として『クロース・トゥ・ホーム』(ダリア・ハゲル、ヴィディ・ビル共同監督)は見逃せない。イスラエルの市街パトロールを任務とする女性兵士たちを描くこの映画は、その冒頭から彼女たちに強いられた労働の過酷さを見せつける。テロの多発する街区においてはすべてのアラブ人男性に疑いの目を向け、その都度IDカードの提示を請わなくてはならない。国境の出入国管理所においては、越境者たちの手持ち品をくまなくテーブルの上にぶちまけて詰問しなくてはならない。人にひたすら監視の目を向けることを仕事としている少女たちもまた、巡回にやってくる女性上官たちに見張られている。職務中に腰を下ろして一息つくのにも緊張が走る。こうした職務を甘受する他はないふたりのヒロインたちを通して、本作は現在のイスラエルのあるべき姿を声高に叫んだりはしない。ここではイスラエルの地政学的要素がひとつのバックグラウンドとなり、この難しい土地を生きるふたりの少女の過渡的な時間、つまり彼女たちの青春こそが問題となっているのだ。自意識の固い殻を破り、他者へのおびえを克服するまでの成長を映画はまっすぐな視線のドラマとして描ききる。まなざしの権力の中の女性性の揺らぎは、不器用な恋愛に破れた後で、ふたりの少女が軍服のまま美容室に飛び込むシーンにおいて、鮮烈なクライマックスをみせる。職務中の巡視も警戒せずに、大きな鏡を前にして大声で口論しながらふたりの少女は髪を洗う。洗いざらしの髪のまま彼女たちはふたたび市街パトロールに繰り出していく。この映画は、固い友情で結ばれたふたりの少女の顔のクロースアップで幕を閉じる。このすがすがしさに言い訳はいらない。


特集上映 ダニエル・シュミット追悼上映

 この夏に急逝してしまったダニエル・シュミット。失ってから改めて、その存在の大きさに気づく、というのはあまりにも通俗的かもしれない。だが、久しく新作を目にしなかった映画作家の寡黙さが、永遠の沈黙になってしまった事実には、痛切な重みを感じないではいられない。たとえば、ダニエル・シュミットが残したもの──夢幻の劇場を想起させる時空間、サミー・フレイやイングリッド・カーフェンらのフィルモグラフィーにおける重要性など──に匹敵する作品をつくる監督がいるだろうか。監督の世代や国籍といった条件を取り払ったとしても、この問いに答えるのは容易ではない。すると、うまく言明することができなかったシュミットの仕事が、この上なく希有なものであったと今になって気づかされる。

『ヴィオランタ』
 今回フィルメックスで上映された『ヴィオランタ』(1977)は、即座に理解することが困難な映画だ。義理の妹の結婚式のために故郷に帰ってきたルー・カステルが丸一日の内に体験しつくす時間の中で、父を毒殺した母の記憶やすでに死んでいった親類たちの姿がよみがえり、生者と死者が対話を交わしはじめる。これを一切の説明なしにやりおおせてしまうところがダニエル・シュミットの大胆さにほかならない。何しろ、観客たちはその映画が終わるときになって、ようやく混濁した時間の流れを感知できるといった次第なのだから。

『天使の影』
『天使の影』(1976)においては脚本・主演を担当しているのがファスビンダーであることから、映画にはある獰猛さが認められる。売れない娼婦演じるイングリッド・カーフェンとそのヒモに扮するファスビンダーというデカダンなカップルが、傷つけあい血を流す姿が静的なカメラによって切り取られていく。汚辱にまみれた者たちに対しても、シュミットの冷静かつ果敢なまなざしはぶれることがない。
 シュミットの貴重さはまだまだ語られるべきだろう。追悼上映は年が明けてからもユーロスペースとアテネフランセで開催される予定だ。


特集上映 岡本喜八監督特集

 岡本喜八の作品はビデオソフト化されているものが多く、いまだ名画座などで上映される機会も多いため、この特集自体それほど珍しいものではないと軽視した人も多いかもしれない。しかし、東京フィルメックスという国際映画祭の場で「岡本喜八特集」が開催されたことはたいへん重要であることのように思われる。日本人の私たちからは見慣れた名匠も、世界的な見地からはまったく「新しい」ものと見えることがよくあるからだ。そしていま、既視感にとらわれることなく岡本喜八の作品を見てみると、これがまったく突出した映画以外のなにものでもないように感じられるのだ。

『結婚のすべて』 ©1958 TOHO CO., LTD.
 予期せぬ驚きは、まず喜八のデビュー作『結婚のすべて』(1958)から始まる。岡本喜八は、処女作からすでに明確な作家性を獲得していたことがありありとわかる傑作だ。シナリオやセリフ、ギャグの軽妙さ、そしてなによりあのフィルムそのものが踊り出すような撮影=編集をすでに自家薬籠中のものにしているという驚き。自筆の絵コンテを見ながら「ここは6秒」「次は3秒」と厳密な撮影=編集を行っていったというショットが、まったくリズムを崩すことなく1本の映画に仕上がっている。アクション映画(『暗黒街の対決』[1960])であれ、ミュージカル(『江分利満氏の優雅な生活』[1963])であれ、戦争映画(『日本のいちばん長い日』[1967])であれ、まったく狂うことのない厳密さによって岡本喜八の映画は統御されているようにみえる。
 「娯楽」という言葉によって乱暴にくくられていた岡本喜八を、今一度そこから解放して、撮影所崩壊の以前と以後を生きた一作家として再考察すべき時なのだろう。いま鈴木清順がもっとも「撮影所的」な映画を撮っているという奇妙なねじれとともに、生涯現役であった岡本喜八の映画から日本映画史を再検討することも十分可能だろう。


特別招待作品

 この部門の大きな目玉はやはり黒沢清の最新作『叫』だ。前作『Loft』(2005)においてはジャンル映画の深い考察からその変異体を導き出すことに成功した黒沢清が、最新作では舞台を東京湾岸に移し役所広司、小西真奈美、オダギリジョーらによるオールスターのホラー映画を完成させた。

『叫』
 都内でたびたび起こる地震をその合図にするかのように連続殺人事件が断続的に発生する。この捜査を担当する刑事が自分自身に犯人の嫌疑を抱きはじめるとき、「幽霊」がその姿を現す。この幽霊を演じる俳優、そしてそれを捉えたカメラが息をのむほどに美しい。役者の演技の位相が幽霊の現実そのものとして結実するような黒沢清の演出法は、相変わらずの成功をものにしている。また、この新作では久しぶりに東京の風景を真正面から見据えていることも見逃せない。都市における病をその地理から見出すことに心血を注いでいる作家に黒沢清ほどのひとはいない。

『オペラシャワ』
 そのほかジョニー・トー、ジャファル・パナヒ、モフセン・マフマルバフ、アピチャッポン・ウィーラーセタクンらといった評価の高い気鋭の作家たちに加えて、この部門で強い輝きを放っていたのは、ガリン・ヌグロホとパス・エンシナという日本ではあまり名の知られていないふたりの監督たちだ。ガリン・ヌグロホというインドネシアの監督は、ジャワの古典劇を現代に移しかえ、ガムランと舞踏とミュージカルが一体となった『オペラジャワ』を上梓した。きわめて長く充実したショットによってすべての歌唱は撮影され、地声で歌い上げる本物の歌い手たちもそこには幾人も混ざっている。屋内外で撮られた映像は光量の加減と陰影の造形がきわめて繊細で、たった2週間の撮影期間で完成されたとは思えない奇跡的な仕上がりをみせている。

『ハンモック』
 そして、パラグアイ出身の女性監督パス・エンシナが処女作として撮りあげた『ハンモック』これは今年の東京フィルメックスで最大の傑作であった。森の木々に吊されたハンモック。それをカメラは遠いところから見つめ続ける。年老いた夫婦が森の奥から姿を現し、ハンモックに腰掛けてしばらくの時を過ごす。画面から独立して語られる老夫婦の会話が訥々と聞こえてくる。変わりゆく天候のこと。戦争に出征したまま帰ってこない息子のこと。ここでは待つほかないこと。支え合って生きていくこと。雨が降ってくればハンモックは取り込むこと……。森の映像とナレーションは交わることなく平行線を辿ったまま時間だけが進行していく。このモンタージュの政治性はデュラスのそれに匹敵するほどのものだ。この映画がパラグアイで公開されたときに多くの観客たちが詰めかけ「ここに私たちの本当の生活が描かれている」と口々にしたという。きわめてローカルでかつユニヴァーサルな問題がこの映画にはらまれていることは明らかだ。


クロージング作品

『黒眼圏』
ツァイ・ミンリャンが初めて生まれ故郷のマレーシアで撮影したという意欲作『黒眼圏』。彼の作品には欠かせないリー・カンションが主演で二役を演じている。ひとりはリンチを受けて重傷を負った旅人、もうひとりは昏睡状態のまま介護を受ける食堂の息子だ。このふたりの間に横たわっているのは、不思議な愛に目覚めていく女、廃墟のような都会の建築、汚染された空気、そして大きな水たまりだ。それぞれの登場人物たちは、階段や階上の部屋から下をのぞく、といったツァイ作品におなじみの垂直の構図、斜めの視線によってすれ違い、引き寄せられる。さらに、彼のフィルムに特徴的な水—─ここでは、巨大な水たまりや主人公たちが口にする恐ろしく鮮やかな色水、昏睡した男の肌を清める水など—─が、最低限の生命活動に切りつめられた身体のための特異な空間を創出する。そうした作品の時空間が、マレーシアの特権的な風景なのかどうかはよくわからないが、それらはあまりに抽象的であるように思えてならない。都市の問題は普遍的なものではあるが、どこまでも具体的なものであるはずだからだ。ツァイの処女作『青春神話』(1992)を思い出そう。ふたりの主役の男たちの間に横たわっていた空間は台北の都市そのものであったはずではないか。あるいは、この最新作にある抽象性、フィルム全体を満たす、ある種穏やかな終末感、生と死の境界を永遠に滑り落ちるような眠りの時間こそが、今日の都市の「SF的リアリティー」というべきなのか。どこかタルコフスキーを思い出させるラストに至って、ツァイ・ミンリャンはずいぶんと遠いところまで来てしまったのだと私たちは実感する。

16 Dec 2006

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