なんにもしないでもこわくないように──いまおかしんじ『おじさん天国』

寺岡ユウジ

1.

 1962年、小林悟監督の『肉体の市場』を嚆矢とし、やがて内外タイムズの村井実記者によって「ピンク映画」と命名された、日本の独立系プロダクション製作の成人映画(当初は「おピンク映画」と呼ばれていたようだが)、その無数のポルノグラフィー群のなかで、ある一連の作家たちは、(おもに)男性の視姦欲動を挑発する性的幻想をかたちにするのみならず、その時代ごとの、制外者的位置からの、もっとも先鋭的な夢想(多く、性とともに、芸能の起爆力となる暴力を伴わせ)を—─まさぐるように─—フィルムという霊媒装置によって視覚=音響化してきた。
 象徴の源泉とも呼ばれる性器を熱くすべく仕組まれた映像の連鎖は、やがて、現実を犯すまでにその熱を上昇させてゆく。

 たとえば、60年代後半から70年代の初めにかけての、革命への幻想や胎内回帰願望(若松孝二や足立正生)だとか。たとえば、70年代から80年代初めにかけての、都市や漁港などでの過剰する獣的な暴力衝動や怒りの感情(高橋伴明)だとか。たとえば、80年代の最後から90年代初めにかけての、定住的アイデンティティから逃走するノマド的な欲望(瀬々敬久)だとか。
 この系譜のなかに、日本経済に翳りが見え始め、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が起こり、五島勉ら経由の「ノストラダムスの大予言」などがクローズアップされた、90年代半ばに『彗星まち(成人映画館公開題は「獣たちの性宴 イクときいっしょ」。以下同)』(1995)をピンク映画上の童貞作として送り出した、いまおかしんじ(旧表記、今岡信治。時に、いまおか信治、いまおかしんぢ)を位置づけてみると、どうだろう。

 20世紀末の1995年から1999年に発表された『彗星まち』、『イボイボ(痴漢電車 感じるイボイボ)』(1996)、『デメキング(痴漢電車 弁天のお尻)』(1998)の初期3本のフィルムは、父母的な、あるいは位階秩序を持った組織的な、垂直性をもった関係が見当たらず、道徳的なものやあらゆる価値の軽重も揮発してしまい、すべてを倦怠が覆い尽くしてしまったかのような水平面的な空間の上で、時代の叩き出す不穏なグルーヴ感に悪酔いさせられつつ孤独に右往左往する幾人かの男女の日常と夢想との関係を描いたフィルムと呼べる。
 これらのフィルムの主人公は、時計的な時間の外側でふらふらと彷徨し、己の孕むエネルギーを、社会における自己実現のストーリーを組み上げて社会内在的に導いて行くことができない、制外者的な「ショボイ」若い男性である。俺達、いてもいなくてもいい人間だよ、と呟く同僚のかたわら、退職金の札束を凝視しながら数える川瀬陽太の血走った眼。ぶつくさぶつくさと独り言をつぶやきながら街を徘徊する鈴木卓爾のぬぼおっとした容貌や、ペットショップでの勤務そっちのけで女の子を追って川原までふらふらと歩いて行ってしまう岡田智宏の、力の抜けた肩から垂れ下がる長い手。だらりとした無時間的な倦怠と無為のなかで、行き場を失ったエネルギーを導くべく、彼らは、社会という領域の外側にみずからの生命の時間性を組み上げる妄想をみるシャーマンと、なる。
 『彗星まち』においては、76年周期で明治と昭和の終わりという時代の転換時に地球に接近したハレー彗星が「変化」の象徴とされるが、この彗星が現在へと到来することを希求する妄想を(幸徳秋水らのエピソードから触発されたという)。
『イボイボ』においては、新宿駅構内のコインロッカーに仕掛けられた時限爆弾の爆裂による破壊衝動的な妄想を。
 『デメキング』においては、1999年3月に襲来し街を破壊する、巨大怪獣デメキングと、それを迎え撃つべく立ち上がる主人公自身の妄想を(いましろたかしの漫画を参照源としている)。

 男性主人公たちは圧倒的に無力であるがゆえに、恐ろしく誇大な夢をみることによって、自己をかろうじて支えようとしているように、みえる。彼らは現在に生きていられず、未来の夢の中に常にいようと、する。
 フィルムは、これら不確かでナイーヴな妄想を基点とし、これに共振し、共有する幾人かの孤独な男女たちの、たしかめにくく、ふとしたら崩れていってしまいそうな、つながりを描いてゆく(この小さな宗教のようなものの立ち上がりを、映画館とそこに集う観客たちのメタファーと読むことも可能だが──そして、古くから優れた映画は映画をみること自身の喩たりうる、といわれるものだが──とりあえず、控えておこう)。
 やがて、彗星を待つことになる4人の男女たちは、真夜中に、高速道路の走る都市周縁部といった風情の川縁に集って、転がっていた中年男性の死体をガソリン漬けにして焼き、やがて朝焼けを見つめながら、何かに憑かれたかのように衣服を脱ぎ捨てて、ヘドロ塗れの河水で、水浴びをはじめる(なにか文化の始源に立ち会ってしまったかのような感動を得、胸がドキドキするのを禁じえないシーンだ)。
 デメキングの妄想の周りに集って来たチンピラの情婦、スリの師弟、強盗未遂のサラリーマンらは、夢の中に七福神のいでたちとなって現れて、蛞蝓に対するように、デメキングに塩を撒き、皆で哄笑する(即席で、つかのま、緩やかに結び合った七福神たち。そこには、小さいけれどそれが故に強い祝祭性が立ち上る)。
 ねむりぐすりをください、こどものくにへかえれるように、という歌をくちずさむ街娼と、別れた女の幻影に囚われた男は、野球の硬球に仕込まれた時限爆弾を新宿駅のコインロッカーに預けながら、山手線で東京を周回する(破壊願望とタナトスで触れ合う二人だけの共同体)。

 これらのフィルムが、無気力と投げやりな気分と倦怠に覆われ、不穏な空気感をはらみつつも、どこか「青春映画」的な甘美さを感じさせるのは、そこに、期待の感覚というべきものが感じとれるからだろう。なにかが起こるのではないか、なにかが到来するのではないか、というまだみぬ「これから」への過剰なまでの憧憬。それを、社会的・時計的に整除された時間の外側にいるが故に、その混沌の中から、強烈な異物のイメージとして、シャーマンたる男性主人公たちは、現在に立ち上げる。そして、彼らが若く、人生において未具現の潜在性を多量に帯びている時点に存在しているが故に、イメージは、さらに肥大してゆくことになるだろう。立ち込める世紀末的な雰囲気が、肥大を、さらにさらに倍加する。未来は、湧き出す限りの欲望を塗りたくられ、ぱんっぱんに破裂しそうになっている。その未来がやがて、絶望に行きつくのだとしても。

 そう、男性主人公たちのみる夢は、結局絶望にたどりつくのだ。あらゆる現実逃避的な夢想がそうであるように。『イボイボ』での破壊衝動を込めた爆弾は、遂に不発に終わる。彗星の到来を夢想する男は、自らの身体にガソリンを塗りたくって火を放つ。ずらりと並んだ七福神の姿からは、これから彼らの関係がほどけてばらばらになってゆくとしか思えない幸福の刹那性が漂う。しかし、絶望的といってもこれらのフィルムは、悲調に染まりきっていない。彗星を待つ男は全身火傷を包帯でぐるぐる巻きにして、コミックに登場するミイラ男のようになりながら、唐突に、ぬくっと、立つ。くすっ、としたくなるようなおかしみが、湧く。時限爆弾の爆発を夢想する男のうるんだ目。デメキングの夢をみる男のはれぼったい目。夢想する男たちのおかしみ。それは、錯乱した本能をしか持たず、過剰なるイメージを繰り広げ、この世の法則から離脱していってしまいもする人間の条件を、彼らが極端に体現してしまっていることからくる、どうしようもなさへの、どうしようもないおかしみだ。

 「この世の闇に向かって、ひたすら祈りのような、ショボイ映画を作ろうと思っている」と、「ユリイカ総特集 田中小実昌の世界」[1]のアンケートに答えている、いまおかしんじのフィルム群の特性を象徴する映像は、巨大怪獣デメキングが出現するシーンのそれだ。
 それまで、いまおかがその遺作の助監督を勤めた神代辰巳のパスティシュ的な映像の持続によってフィクションを立ち上げようとしてきた画面の質感が、突如として歪みを帯びはじめる。マスク合成だろうか、ビルディングの傍らに顔を出すデメキングは、あからさまに着ぐるみだとわかる硬直した眼球とウレタン質の肌を曝し、あからさまに玩具(チョロQ?)とわかる自動車を蹴っとばすのだ。それは、巨大感を煽ろうとして仰角にされたキャメラすらしらじらしくみえるほどだ。
 フィクションが現実的な空間を離脱してファンタジーを立ち上げるべき時の急所とも呼びうる箇所に不意にもたらされる、脱力。くすくす笑いをするのも束の間、登場人物たちが切実にこの怪獣を受け止めているので、このフィルムが、映像によるフィクションの成立根拠を暴きたててしまおうという野心よりは、ファンタジーの持続の方に重心の置かれているのが解り、みる者は、違和を持ちながらもこの物語に追いついてゆくことを、急き立てられる。
 その映像は、「祈り」の切実さと「ショボイ」チープさ、馬鹿馬鹿しさの両方を併せ持つ。
 そのハリボテが演じようとしているファンタジーに誘引しようとするかにみえて、夢から醒めるように誘っているようにもみえる。同調的にみれば、いまにも現実に侵食されてしまいそうな裂けやすく壊れやすい夢のようにもみえるし、少し突き離してみれば、シニカルだったり、冗談めかしていたり、照れの中で差し出しているようにもみえる。大怪獣にもみえ、トラッシュにも、みえる。
 確かに、低予算・短期間で製作されるピンク映画には時折、しばしばこうした映像が紛れ込んではいるものだが(たとえば、滝田洋二郎の『痴漢電車 下着検札』(1984)の中国大陸を這う張作霖の手だとか、瀬々敬久の『好色エロ坊主 未亡人 初七日の悶え』(1993)での関東大震災のシーンなど)、いまおかしんじは、日常的なシーンと対比させつつ、自ら撮る映像のスタイルとして、以後、さまざまなフィルムに、それを刻印してゆくことになるだろう。
 そして、最新作である、『おじさん天国(絶倫絶女)』にも……。


2.

 この度、ポレポレ東中野において公開される『おじさん天国』は、前作、前々作と、女性主人公をめぐるフィルムを撮ってきたいまおかしんじが、ひさかたぶりに妄想する男性主人公を召喚して撮った12作目の劇場用映画だ。

 フィルムの冒頭、曇り空の下、堤防の上を、大きめの帽子を被りよれよれの背広で、ピンク色のペンキを塗りたくった自転車をキコキコと漕いでキャメラの方へと迫ってくる──どこか夢の中の人物のようにも思えてくる──中年のおじさんが、このフィルムの主人公だ。  ピンク映画の俳優たちは、誠実な二枚目から、強姦魔、同性愛者、老人まで、同じ肉体で多くの役柄をこなし演劇的興味を惹くが、1974年の『女子大生の生態 バイトは二号』以来膨大な量の作品に出演している下元史朗もそうしたひとりだ。このおじさん役では、高橋伴明の『襲られた女』(1981)で、「ちょっと、そこのクリトリスな青年」とクリスタル族を呼び止める男や、瀬々敬久の『課外授業・暴行』(1989)で生徒に脅迫されて銀行強盗をしようとするダメ教師などの、小心で、かつひょうきんな役柄の系譜上にある演技を、みせる。
 やはり、垂直的関係を持つ父親ではなく、おじさんという斜線的位置というところが重要だ。細野晴臣の文章を引用しよう。
 「人はある年齢に達すると、父親としての人生を歩むか、伯父としての人生を歩むかの選択を迫られる。…(中略)…父親的な人生とは、責任感や道徳が支配する安定した重厚なる世界だ。つまり、世の中のエスタブリッシュなものは、ほとんど父親的である。そして伯父的人生とは、その正反対に、はみだし者として飄々と生きる世界なのだ」[2]

 このおじさんが、語らずも体現する問いは、ひとはなんにもしないで生きてゆくことはできないのだろうか? というという問いだ。おじさんは「親類には内緒やで」といいながら、港町にある甥のハルオ(吉岡睦雄演ずる)の部屋に、居座る。なんにもせずにいる彼をみかねて、ハルオが、「おじさん、仕事しろよー」と言葉を投げると、「毎日イカ釣ってイカ食うてたらええねん」と少しうわずった声を、あげる。
 そう、彼もまた無時間的なアンニュイの中に生きようとする、初期作品の若者たちが歳をとって成り果てたかのような、いまおか映画の男たちのひとりなのだ。
 そんなおじさんも、時給900円の宅配ピザのバイトで、スクーターを運転して、時間の中に参入しようとするのだが、カーヴを切れず、横転し、ずっこけてしまう。時間を泳ぐという行為によって、リズムを作りだせないのだ。
 やはり、おじさんも妄想を、する。初期いまおか映画の男たちは、破裂しそうな未来を夢見たが、おじさんは、夢を恐れ、オロナミンCをしこたま飲んで、眠りに落ち込まないないようにしている。初期作品で夢は、どこかエロティックな甘美さを匂わせていたが、ここで、おじさんは夢に追いたてられている。
 夢の中で死んだ女とセックスをし、その女のことを好きになってしまったのだ。「相性もばつぐんやねん」という、その理想の具現のような女との性交は、自己との距離を消滅させた女性器との融合状態というか、エクスタシー(恍惚、忘我、脱魂)の途切れ目のない持続という無時間状態のイメージだ。おじさんは、生の中の無時間状態を彷徨っているのだが、その夢の中に現出しているのは、もっと絶対的な無時間状態のイメージであり、それは、死についてのイメージなのではないだろうか。ここで、夢みられる未来に待っている出来事、それは、死という生の彼方なのだ。
 おじさんは、その夢から逃れようとする。そのたびに、自己保存欲動を沸騰させ、勃起し、周囲の女性たち皆と衝動的にセックスを繰り返す。この世で登記された自分の名前を、彼女らの背中にマジックで記しながら。なにもしないことを志向するおじさんなのだが、眠れば夢があらわれてしまい、そこから逃げるように、行為=時間を組み上げてしまうのだ(一方、甥のハルオは、大王イカという、海の神秘的な生物に魅せられ、そこに不確かな未来をみている)。
 そして、遂に、おじさんは、死ぬ。

 死の光景では、あのデメキング的な歪みが画面に、走る。それまでに挿入されていた、実際のマムシの姿を捉えたショットと対照的に、おじさんが、噛まれるや否や、ゴムのような模造のマムシを振り回して、噛まれた、というよりも噛ませている、マムシに息を吹き込もうとしているかのような、一人芝居的なショットが挿まれることになる(吉岡睦雄が大王イカに襲われるシーンでも同様な身振りがなされ、両シーンが照応するように、なっている)。このフィルムの死のシーンは、どれもこのような歪みのもとに映しだされ、実にいまおか映画的なファンタジーとして、このフィルムがこの世から序々に離脱しようとしていることを告げる。
 そして、おじさんは、地獄に、落ちる。
 この地獄のイメージがいかにもおかしいのだが、とりあえずここでは、「そこでは、ありうべき最も不条理なインテリアに囲まれ、名前のない相手とともに一切の身分から自由になって死ぬ機会を求めて入るような、地理も日付もない場所の可能性が予感されている」という夢想へと、フランスの哲学者・ミシェル・フーコーを誘った、ある日本の建築物が、地獄へと、見立てられるとだけ述べておこう。フーコーは続けて、「そこでひとは、何秒、何週間、あるいは何か月におよぶかもしれない不確定の時間をすごすだろう」[3]と書いているのだが、そこが、無時間的な空間としてフィルム上に現出する。
(ここまで書いておいてナンなのですが、以後の2段落は、フィルムをみられてから読まれることをお勧めしておきます)
 この地獄のイメージが興味深いのは、この地獄すらがいまおか的空間の中では水平面上に位置していることだ。中川信夫、神代辰巳、石井輝男といったシネアストが「地獄」と題するフィルムを撮っているが、地獄への参入を示すのに、それぞれに主演した天地茂も、原田美枝子も、佐藤美樹も、「落ちる」「堕ちる」「墜ちる」と記述できるような、落下を演じている(源信の『往生要集』によれば地獄は地下、一千由旬ともいう)。重力によって、生の世界と死後は切り離され、容易に這い上がることができない、というイメージが、生と死の差異を際立たせる。しかし、ここでは、それが水平面上にあるがために、生との距離感が希薄なのだ。そして、生との対照が少ないが故に、生の方も希薄になる。また、「堕ちる」ということは、(十戒を破ったなどの)道徳性の意識のはずだが、それも、この地獄には、ない。裁きを与えるはずの閻魔大王に藍山みなみが、聞く。「閻魔大王さまですか?」「さまはいいですよー」。
 おじさんを助けるべく進む冥府の旅は、なんとも気の抜けたものになる。そして訪れる、希薄なる再生……。しかし、その再生に溢れる微かなユーモアの光輝……。
 やがて、フィルムは、惑いの中で、何か大事なことをもうひとついい逃してしまったかのような風情を残して、唐突に、途切れる(さながら、思索的な知人が密かに書き溜めていたノートを覗いてしまったかのような感触が、残る)。何か大事なことばを次へと繰越してしまった、かのように。まるで、これから撮られるだろう新たなフィルムが発話を開始することを待ち望んでいる、かのように。


 最後にこのフィルムに登場する女性について語ろう。
 男性たちが、時間と上手く折り合いをつけられずに七転八倒するのにたいして、女性たちは、落ち着きをもったパルスを打ちながら、男たちの傍らに佇む。笑う。相槌を打つ。(まったく、都合のよすぎるほどに)股を開く。素肌を曝す。
 これといった印象的な台詞もなく、幾分おとなしめな印象なのだが、主演女優の藍山みなみは、たとえばキャメラに背中を向けながら堤防にしゃがみこんでじっとしているだけで、男たちによって掻き乱された時間のうえに、静謐でローな脈動を深く刻み込み、強くキュートな存在感を、残す。
 シーツの上で曝された素肌には、仄かな赤らみを孕みながらも、「透き通るように白い」という形容があてはまるように思われるが、室内のシーンの多くが逆光で撮られているせいか、あるいは、俯いているショットが多いせいか、このフィルムの中で彼女の顔が持たされる色彩は、少々「蒼ざめた」「血の気の引いた」という形容が似合うような気がし、垂らされた長い黒髪で縁取られていなかったら、背後に広がる港街の灰色の曇り空に溶け入ってしまいそうな印象すら、する。
 まるで保護色を纏うかのように、堤防ではだぶだぶなグレーのスポーツウェアの上下を纏い、コンビニのシーンではグレーのジャージの上下を纏う。
 労働の場たる久米水産工場では、真っ白な作業着を纏い、白のゴム長靴を履き、白いマスクに白の帽子で、目の周りを残して、全身をまったく白一色で包むのだが、終幕近くのワンシーンでは、赤い乗用車の窓を開け、ハルオが口内に発射した白い液体を、路面に向けて、ぶうっと、吐き出す。
 水平面的で虚無感とユーモアが交差するこのフィルム上の世界の内側で、アスファルトに叩きつけられる、受精の機会を永遠に逸した無数の雄性の生殖細胞たち……。


『おじさん天国』(成人指定映画館公開題:絶倫絶女)

監督:いまおかしんじ
脚本:守屋文雄
撮影:鈴木一博
音楽:ビト
キャスト:下元史朗、藍山みなみ、吉岡睦雄、松原正隆、平沢里菜子、佐々木ユメカ、伊藤猛

2006年/日本/66分

12月9日からポレポレ東中野で公開


[脚注]

*1.
「アンケート タナカ・コミマサに花束を。」『ユリイカ』32巻9号[ 2000年6月臨時増刊 総特集*田中小実昌の世界 みんなコミさんが好きだった。]所収, 青土社, 2000年.

*2.
細野晴臣『細野晴臣 OMUNI SOUND』リットーミュージック, 1990年.

*3.
ミシェル・フーコー「かくも単純な悦び」増田一夫訳,『同性愛と生存の美学』所収, 哲学書房, 1987年.

03 Dec 2006

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