自然が作られるとき、ゆらぐとき
──イオセリアーニ『ここに幸あり』

森元庸介

 作品が自然を模倣するという論題が自明とされた時代があり、それが引っ繰り返されたこともあり、さらには論題をめぐる問いがほとんど用済みとされかけた時代がある。いまになって同じ論題をしばらく見つめ直すと、そこにある謎は決して解かれていないことがわかる。

 周到さを経て偶然性を見かけのうえで作り出す、というその方法においてきわめて一貫したイオセリアーニの映画を見るとき、またそれを省るとき、自然が仮構されるということの不思議が立ち戻ってくる。

 新作『ここに幸あり』でほとんど何も起きない。もう少しいえば、古来からの詩学が求めてきた営みのあいだの必然的な連関がそこにほとんどない。あるいはそのように見える。

 強いられて大臣の職を辞めたけれど、辞めたらずいぶんさっぱりして、親しんだ公園をぶらついてみる。「よく戻った」と笑いかける旧友がいる。逆に、何年も会わずにいた妻を訪ねれば、これはしかたあるまい、けんもほろろに追い出される。追い出されて今度はかつて暮らした街路を歩く。道ばたで声をかけてくる男は自分と旧知の間柄のようだが、思い出すのに少しだけ時間がかかる、実のところ本当に思い出したのかたしかではない。さらに別の友だちがやってきたが、かれはいつのまにやら正教の司祭になっていて誰だかわからなかった。飲もうじゃないか、と誘われた先は、思い出すのに少しだけ時間がかかった当の男が経営する酒場で、どういうわけなのか、公園で出会った友だちがずらりと顔を揃えている。

 ひとが会うのは、あるいは再び会うのは、偶然によって、あるいは事故のようにしてなのである。路上で汚水をかけられて、見知らぬ女が部屋に案内してくれる。路上で車に撥ねられて、いつかどこかで会った女に助けられる。奏でられるピアノに惚れ込んで窓から花を投げ入れた相手は、庁舎の掃除婦でもあるから、公職にあったあいだ長くすれちがっていたはずである。けれども男はついにそれに気づかない。

 偶然、という主題をめぐって精密な計算がなされ、明確に作品として意志された時間が実を結ぶ。その作品は、自然のうちでひとがいかに何も知らないかを教える。あるいは、そこでひとが何も知らない環境としての自然を作り出す。ということは、自然はひとつの見かけとしてたしかに仮構されている。

 自然において起きることは偶然である。けれども起きたことは、いかほど些少であれ一個の歴史に組み込まれ、組み込まれた以上、必然であったのだとしか思いようがない。古典詩学が péripétie の名のもとで好んで論じたのは、この転換、あるいは転換の錯覚である(それはつまるところ錯覚だ、すべてが仮構の結果だ──繊細にそう指摘してみせたひとりが「近代人」フォントネルである)。

 詩学による提題が述べることは、けれども、現実の生とどれほど隔てられているだろう。経験したことがらのすべてが偶然である、と思ってみるのは、想定を貫徹する厳しい意志を欠くなら、やはりあくまで一時の愉しみである。錯覚を皮膜としてもたぬ現実、仮構されぬ自然。それが生きられうるものかどうか、なかなか定かではあるまい。翻って、現実は錯覚とわかちがたく、相互に反転しさえするのだと示すとき、作品はひとつの自然そのものへ変化している。

 だが、それだけであろうか。イオセリアーニの新しい作品はいつでもイオセリアーニの旧い作品と深く似かよっている。かつてあったものからいまあるものが延長されているかのような印象を与える。法学の歴史は、新しい制度のモデルとなる旧い制度を「自然」と呼んでいた。同じように、模倣するものは、己が模倣するというまさにそのことによって、模倣されたものを自然のうちへ繰り込んでゆく、ということがある。模倣はたしかに自然を作り出しもするわけだ。

 だが、それだけであろうか。『ここに幸あり』で、見る者がよく知っているはずのひとの隣にまったく知らないひとが座って宴席を囲んでいる場面がある。さきほどと同じ場所なのではないかと思うところがちがう場所のようにして現れる場面がある。二つ、三つ、あるいはもう少し。軽い違和に襲われ、いや、たぶん何かを見落としたのだろうと再見し、友に相談を求め、あそこにいたのは、やはり、どのようにしても知られようのないひとだったのだ、と思われてくる。

 まるで見知らぬ者とともに通り過ぎてゆくのは、いかなる自然であるか。作品が作品のうちで作り出す自然とは異なる、あるいはまた、作り出されながら、実のところあなたはここにいるのだとみずから教える自然とも異なるもののように思われる。仮構がそこに手をつけてしまうや、みずからの生存を保証するはずの線をも消し去ることになる、そのような自然なのではないか。イオセリアーニの作品のうちで、それはあまり見受けられなかったことのように思われるが、どうか。

 答えを急く理由はどこにもない。旧い作品に立ち返って、新しい作品とどれほど同じで、また異なっているのかを確かめてみることが必要になる。あるいはむしろ誘惑の対象となる。誘惑されたあかつきに、おそらく、同じことと異なることがどれほど同じで、どれほど異なるのか、さきほどまで見定めていたはずの境界はいつか不鮮明となり、錯覚だったと思われ、いずれすべてが忘れられる。忘れられたあかつきに、新しい作品に立ち戻ってみるなら、おそらく、ミシェル・ピコリが、ごく自然に不自然な佇まいを保って、ひとの帰りを静かに待っている。

『ここに幸あり』 JARDINS EN AUTOMNE

監督・脚本:オタール・イオセリアーニ
撮影:ウィリアム・リュプチャンスキー
音楽:ニコラ・ズラビシュヴィリ
製作:マルティーヌ・マリニャック
キャスト:セヴラン・ブランシェ、ジャサント・ジャッケ、ミシェル・ピコリ、リリー・ラヴィーナ、ドゥニ・ランベール

2006年/フランス/115分

恵比寿ガーデンシネマにて大ヒット上映中

17 Nov 2006
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