[エディトリアル]早すぎる、遅すぎる──映画を見る場所、見る時間

土田 環

 エルンスト・ルビッチ(1892-1947)のトーキー時代に、『天使』(1937)、『桃色の店』(1940)をはじめとする9本の作品で抜群のコンビを組んだ脚本家サムソン・ラファエルソン(1894-1983)は、1943年のある日、「ルビッチ心臓発作にて倒れる」との報を受ける。秘書からルビッチ危篤の旨を聞いたラファエルソンは、彼の死を覚悟し、称賛の思いを綴った文を用意する。実際にはルビッチは一命をとりとめ、弔辞が書かれたことはごく数人のみに伏せられたまま数年が経過するのだが、ある時ルビッチはそのことを知るに至り、ラファエルソンの目の前で文章の手直しを始める……。
 本人の映画さながらのユーモアに満ちたこのエピソードを中心に、ルビッチとの親交について書かれたラファエルソンの『友情』は、1981年、雑誌『New Yorker』に掲載された文章が元になっている(Samson RAPHAELSON, Amitié, Ed. Allia, Paris, 2006)。映画と同じようには、天国は待ってくれない。ラファエルソンは友人の本当の死に先立つこと4年も早く弔辞を書き、約40年をも経るに至ってようやくその思い出を語ることになる。第二の弔辞とでもいうべきこの本の冒頭でラファエルソンは述べている。「彼のことをよく知っていたともまったく思えないし、彼が私のことをよく知っていたとも思えない」。映画監督と劇作家という異なる職域で活動していたふたりは私生活においてごく限られた時間しか共にしていない。だが、弔辞を書きつつもお蔵入りにせざるを得なかったという最初のリセットが、そして、二度目に筆を取るまでに費やした時間こそが、友人であり敬意の念を抱いてやまなかった映画監督の記憶について語る権利を正しく持つことを可能にしているのではないだろうか。いずれにせよ、死を誤認してしまうというひとつの出来事がルビッチの映画自体と重なり合うかのようなこのテキストを辿れば、ラファエルソンにとって喪の作業のために必要な時間があったことは確かだろう。「デリカシーとは、真実というつま先の下にあるバナナの皮のようなものだ」(『生活の設計』(1933))。

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 第1回ローマ国際映画祭の10月開催を前にして、その存在を脅かされていた第63回ヴェネチア国際映画祭は、ジャ・ジャンクーの『三峡好人』(第7回東京フィルメックスのオープニング作品)にグランプリである金獅子賞を与えることで幕を閉じたが、表彰に際しては、新作『Ces rencontres avec eux』をコンペティション部門に出品したジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレに、映画言語の革新における貢献に対して特別賞が送られた(コンペティションには1国から最大3作品という制限があるため、フランス人であるふたりの監督のこの作品をパヴェーゼ原作、イタリア語作品でイタリア人俳優が出演していることで、実質的にイタリア映画として扱った)。市民の娯楽とマーケットの拡大を謳いながらも、どちらの点においても機能しているかどうかまったく疑わしいローマ国際映画祭を尻目に、ストローブ=ユイレをはじめとして、アラン・レネ、ブライアン・デ・パルマ、大友克洋、ツァイ・ミンリャン、ジョニー・トーまでを同じコンペのなかに選択した今回のヴェネチア国際映画祭は、その伝統にもまして、東京国際映画祭に審査員として来日していたマルコ・ミューラーの手腕を十分に示したものだったといえるだろう。しかし、ストローブ=ユイレがヴェネチアに姿を現すことはなく、代わりにジャン=マリー・ストローブの手で署名された2通の手紙が映画祭に送られたという(『リベラシオン』誌, 9月13日号)。その手紙でストローブは、自分たちをコンペ部門に選出したマルコ・ミューラーの「勇気」に感謝すると同時に、資本主義的な原理に基づき、公権力によって保護された映画祭そのものを批判して、映画祭への出席を拒否する理由を説明している。「アメリカ帝国主義が存在する一方で、世界における私たちテロリストの数は十分なものとはいえない」(フランコ・フォルティーニ)。ジャーナリストとしてストローブが初めてヴェネチアを映画祭で訪れたのは1954年のこと、その時に文章を書くことを選んだ3本の映画は、いずれも受賞を逃した作品、溝口健二『山椒大夫』、ヒッチコック『裏窓』、ブニュエル『河と死』だったという。その後、監督作品『マホルカ=ムフ』で1963年にヴェネチアを再度訪れたストローブは、『妥協せざる人々』(1965)、『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』(1968)、『モーゼとアロン』(1975)でヴェネチア映画祭に出品することになるが、受賞をしたのは今回が初めてということになる。ストローブは手紙のなかで、自分たちに対するこのオマージュについて述べている。「私たちが死ぬには早すぎるし、私たちが生きていくには遅すぎる」。期せずして1ヶ月後に突然訪れたダニエル・ユイレの死は、早すぎたのか、遅すぎたのか。夫婦漫才である以上、ジャン=マリー・ストローブが新たな映画を撮ることはないだろう。彼らの映画を信じ続けるものにとって、その死の時は両義的な意味を含んでいる。

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 今年のヴェネチア国際映画祭ではまた、まもなく98歳を迎えるマノエル・デ・オリヴェイラの新作『Belle Toujours』(邦題未定、来春日本公開予定)が上映された。これは、今回の映画祭のコンペティション部門の審査委員長を務めていたカトリーヌ・ドヌーヴが39年前に主演したルイス・ブニュエルの『昼顔[Belle du jour]』(1967)の続編となるものだ。『昼顔』では、自らの肉体的な欲望と道徳とのはざまで葛藤しながらも、夫には秘密で娼婦の顔を持つ人妻セヴェリーヌが、ある日、夫の友人であるユッソンに売春宿で出会ってしまう。オリヴェイラの作品は、それから39年後、夫を亡くして老年にさしかかった女と、彼女の秘密を知る友人が再会することで幕が上がる。簡潔なプロットと会話によるユーモアだけで構成されたこの映画は、オリヴェイラが達した名人芸的な自由自在の境地を示すものだといって間違いないだろう。ブニュエルとは会釈することはあっても、ゆっくりと話したことなど一度もないというオリヴェイラは、数年前にメキシコに招かれてたまたまブニュエルの息子と食事をした際に、映画化を決めたのだという。オリヴェイラの演出は、軽くそして力強く、映画史的な記憶に拘泥することなど微塵も感じさせることはない。安易なシリーズ化、リメイクにもはや驚きや怒りさえも覚えないほどに慣れきってしまった今日において、やがて100歳の現役監督になるであろうポルトガル人監督が39年後に作り上げた「続編」のラディカルな姿勢と笑いとを受け入れるほどの余裕は残されているのだろうか。映画に上手な老け方があるとすれば、この映画のピコリにはなっても、『スーパーマン』(1978)で地球上でのスーパーマンの父親を演じたグレン・フォードにはならないだろう。

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 81歳のロバート・アルトマンの映画『A Prarie Home Companion』(邦題未定、来春日本公開予定)は、消えゆくラジオ番組の公開生放送最後の一夜を描いた作品である。実在するカントリー系音楽番組「プレイリー・ホーム・コンパニオン」のコンサート・ホールを舞台にしたこの映画は、人間関係と密接に結びついたアルトマン独特の空間構成を軸にして、メリル・ストリープ、リリー・トムリン(『ナッシュビル』(1975))、ウディ・ハレルソンらの歌がパセティックな雰囲気を作り上げており、主題は異なるにせよ、同じくカントリー音楽を扱った『ウォーク・ザ・ライン』(2005)と比べても良く演出のいきとどいたものだといえるだろう。しかし、この映画に登場する「死の天使」が消えゆくメディアの弔鐘として機能するのだとすれば、それには違和感を覚えずにはいられない。たしかに、ルビッチ、ブニュエル、オリヴェイラ、神々との対話を扱ったストローブ=ユイレの映画にさえも「天使」は描かれていた。だが、70年代、80年代にヴィム・ヴェンダースやダニエル・シュミットの映画に登場した天使がいま降臨するのだとすればそれは遅すぎるし、映画の本当の死を語るにはまだ早すぎる。

14 Nov 2006
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