一貫性への配慮──鈴木則文特集上映@エトランジジェ映画祭レポート

オリヴィエ・ボレール

『聖獣学園』(1974)
 告白しよう、私は鈴木則文のフィルムをたったの4本しか見ていない。それらは今年9月パリで催された第14回エトランジュ・フェスティヴァル(L'Etrange Festival)にて上映されたものだ。『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』(1973)、『聖獣学園』(1974)、『少林寺拳法』(1975)、『堕靡泥(ダビデ)の星 美少女狩り』(1979)。彼の膨大なフィルモグラフィーからすればあまりに僅かである。だから以下で至り着く結論を彼の作品の全体に対して一般化することはできまい。とはいえまた、ここでの4本はすべてが家族あるいはセクシュアリティに対する関心を示していて、またそれらを独創的な問題系に即して描き出している。こうした問題系は70年代に特有のものであり、また、やはり当時に典型的な──そこに現代社会に対する正当な見立てと同時に、ときとして反駁を呼ぶような逸脱が見出されもするという点において典型的な──歴史への関心に結びついていると思われる。

 ここでの主人公たちはほぼ全員が若者で、彼らは何不自由ない「金メッキ」世代に属している。4本のうちいくつかは非常に西洋化された日本の表象をオープニングに映し出すが、それは労働によってではなく、逆に、余暇と快楽によって性格付けられている。『聖獣学園』においては、東京の街を映し出す数々の美しいショットが魔美(多岐川裕美)の世俗世界への別れを告げる。それらは女子修道院に入る直前の最後のさまざまな快楽を見せてくれる。アイスホッケーの試合、カトリーヌ・ドヌーヴとアラン・ドロンのポスターが掲げられた映画館、そして街のネオン群(そのうちのひとつには「Milano」とある)。あるバーで彼女はひとりの男に出会い一晩を共にする。それはまさしく最後の娯楽であり火遊びである。また『堕靡泥の星』の達也(土門峻)は億万長者の息子だ。オープニングでは彼の生きる環境が描き出される。野球の試合、少女が馬に乗り、あるいは水着で砂浜を駆けている、そして船上の煌めき……。さらに『不良姐御伝』の舞台である明治時代も日本という国の深い変容によって特徴付けられている。近代化に向かう日本だ。オープニングに見せられる数々のアーカイヴ写真がそれを説明してくれ、ひとつの国が世界的な工業力へと踏み出すその変化を描写する。

 主人公らがまったく労働に勤しむ必要もないこの豊かで先進的な社会が、しかし父たちによって形作られたという事実がすぐさま明らかとなる。父たちを巡る物語が問題となり、彼らこそが有罪人として描き出される。こうしてそれぞれの物語の根には倒錯的な父が、脆弱な父が、淫らな父が、不在の父が存在し、なかでも秀逸な例は同世代の誰かに殺されて欠如した父だろう。主人公らの為すべきは、父の復讐(『不良姐御伝』)、父から継承した倒錯性へ向き合うこと(『堕靡泥の星』)、隠された父を発見すること(『聖獣学園』)、あるいは象徴的な父の失墜後に自ら父の地位を獲得することだ(『少林寺拳法』)。こうした物語から解放されるべく彼らには悪の根源に遡り、そして自らに固有の物語を再構成する必要がある。その意味で『聖獣学園』はまさしく父性を探し求める長い道程となる。魔美の父は誰か、つまり魔美の母が女子修道院での宣誓に背いて妊娠したのはいったい誰の子なのか? 答えは明白だ。血肉の父は同時に信仰の父だ、つまり修道会の長たる司祭なのだ。『不良姐御伝』の猪の鹿お蝶(池玲子)は幼少時に父の殺害現場を目撃してしまう。それによってその後20年の彼女の人生が決定付けられる。殺害の犯人であり、いまや国を牛耳ろうと望む者どもへの復讐だ。またこの2本のフィルムでは性が復讐の武器となる。母の死の原因たる司祭を魔美が殺すのは彼とセックスをした直後であり、同様にお蝶もセックスの最中に犯人のひとりを殺し、父の復讐を成し遂げる。『堕靡泥の星』の達也は強姦と暴力から生まれた子供だ。生みの父親は倒錯的な殺人者で、彼こそが達也に遺伝として自らの欠陥を譲り渡し、また育ての親は、そのもうひとりの父から妻が受けた辱めに我慢ならず──もちろん妻の享受した快楽にもだ!──そこから生まれ出た達也に自らの嫌悪と暴力を刻み付ける。ふたりの悪しき父が彼を拷問官に仕立て上げるのだ。彼が執拗に証明しようと試みるのは、人間には──特に女性には──善なるものなどいっさい存在しない、ということだ[*1]。そして最終的に彼は自らでふたりの父を殺す。『少林寺拳法』において、国の大義に尽くした完全無欠のスパイ宗道臣(千葉真一)が敗戦降伏の際に抱くのは、裏切られたという感情だ。天皇という象徴的な父は彼を裏切り、そして見捨てるのだ。宗道臣はたった独り少林寺拳法によって国の誇りを救い出そうと決意する。国に捨てられた子としての運命が孤児たちの一群によって比喩的に説明され、生き残るのにも困難な戦後において宗道臣は彼らを護ろうと努める。つまり彼の選択する道程とは、拳法によって新たなモラルとともに作られる別のもうひとつ国家の父となることなのだ。

 おそらく『少林寺拳法』は4本のなかでもっとも一貫性を持ったフィルムだろう。なぜなら象徴的な父という問題が原理的にどれほど政治的であるか、このフィルムはそれを強調するからだ。先行世代の責任問題を提起しながら、このフィルムは明白なモチーフに取り組む。つまり家族および共同体における固有の物語=歴史を取り戻すことだ。私が実見したこれら4本のフィルムは、たとえそれぞれジャンルが異なるとしても、すべてが歴史、とりわけヒロシマや強制収容所といった第二次大戦の残虐行為に対する明白な参照を含んでいる。

『堕靡泥の星』の達也は悪と穢れに魅了されている。彼はナチスによる広汎な権力濫用を──作中では、ナチスの残虐を示す数々のアーカイヴ写真のモンタージュが突如差し挟まれる──大学の講義をつうじて発見する。それらの犯罪を模範として彼は自ら死刑執行人になってゆく。人間は善たりえないことの証明に身を尽くしながら、拷問が穢れへの嗜好を犠牲者に啓示すると考え、最終的にはもっとも理想的な少女、つまり長らく彼を愛しその傍らに寄り添ってきた幼馴染みの少女にたどり着く。彼は彼女にこう打ち明ける。「君は純粋だ、君に堕靡泥の星を付けてやろう」。彼の手によって堕靡泥の星は贖罪の象徴となり、同時に完璧なる美の象徴となる。『聖獣学園』の魔美は女子修道院に入り、母の死の原因を突き止めようとする。彼女がそこで発見する倒錯的な世界にとって基礎となるのは疑いと恥辱と折檻だ。もちろんそこは強制収容所ではない。しかし世界から隔離されたこの場には犠牲者ー執行人の関係が十全に存在する。やがて母の殺害は妊娠が原因だったのを魔美は知るのだが、ラストでこれら残虐性の根拠が一挙に露となる。つまり悪の根源たる司祭、彼はその背中に原爆の傷痕を抱えているのだ。また『少林寺拳法』で宗道臣のモラルの基礎となるのは、1945年の敗戦で日本が被った恥辱への拒否の念だ。ここでもまたアーカイヴ写真のモンタージュが戦争の残酷さを想起させる。かつてのスパイ、そして拳法のエキスパートたる彼は弱者を助けることに誇りを賭け、拳法の道場を作ることで彼らとともにモラルと正義の勝利を目指す。「正義なしに力はありえない、だが……力なしに正義はありえない!」と叫ぶ。このフィルムを強烈なものにしているのは、戦後日本についてのありとあらゆる描写だ。貧困、闇市、孤児たち、娼婦たち……。そして主人公の道程はフィルムと同時代の観客に対して教育的価値を持ち、この国がどのように活力を取り戻したかを彼らに示す。また明治時代を舞台に展開する『不良姐御伝』は当然ながら戦争に対する直接的な参照を含むことはないものの、歴史と政治をめぐるさまざまな問いが筋立ての重要な糸となる。猪の鹿お蝶がアナーキストの若者とともに闘うのは、ヤクザの庇護にある極右の指導者であり、彼こそが彼女の父を殺害した張本人だ。悪徳政治家を支援するのは英国人たちである(だが彼らは英国諜報機関の人間であり、日本の掌握を目論んでいる)。ここでは彼らの陰謀と、西洋化された生活様式が告発されるのだが──かれらが最初に登場する舞踏会のシーンは『山猫』(1963)を模しているのだが、その模倣のなんと滑稽かつキッチュなこと!──、これと同様のしかたで『少林寺拳法』ではアメリカの影響が告発されることになる。

 さて、1973年から1979年の間に製作されたこれら4本のフィルムは、フランスにおいて「復古モード(mode Retro)」と呼ばれたものと正確に同時代である。当時のヨーロッパの映画において第二次大戦は重要な再読解の対象となり、そこではしばしば従来までタブーとされた点に向き合うことが目指された。占領時代の対独協力者たちの振る舞い(『ルシアンの青春』ルイ・マル監督, 1974)、あるいは犠牲者ー執行人の関係性(『愛の嵐』リリアーナ・カヴァーニ監督, 1974)。彼ら以前には『悲しみと哀れみ(Le Chagrin et la Pitié)』(マルセル・オフュルス監督, 1969)と『影の軍隊』(ジャン=ピエール・メルヴィル監督, 1969)が存在した。前者は占領に対する受け身のフランスを見せたドキュメンタリー、後者はレジスタンスを色塗った苦悩の数々──そこに固有の人間性、内部での裏切り、懐疑など──を立証した。そしてパゾリーニの『ソドムの市』(1975)がこの問題提起の頂上をマークする。そこでは権力と消費とセックスとファシズムとが付き合われるのだ。パゾリーニは性的暴力の表象において頂点に達したと自ら信じ、だからこそ『ソドムの市』は単なる好色への還元に強く抵抗している。だが一方で留意すべきは「復古モード」から派生した下位ジャンルがイタリアとアメリカで誕生するのに、彼が図らずも貢献してしまったということだ。それは「ナチ・ムーヴィ」、「ナチ・ポルノ」などと呼ばれる。これら「Z」級フィルムはSSやその犠牲者たちを舞台にあげながら、思考を絶するものをサドマゾ色のエロティック映画やポルノ映画に混ぜ込めてしまったのだ。

 ミシェル・フーコーは『カイエ・デュ・シネマ』誌のインタヴューでこの変異的な湧出──それは文学においても同様に現れていたわけだが──を分析し、権力におけるエロスの充填という問いを提起している。「この種の情動的かつエロス的な結びつき、つまり権力への欲望、あなたがたに向けて行使される権力への欲望、それらは実際にはもはや存在しないのです」。ナチスへのまったく病的な嗜好──実際のところナチスこそは極めてピューリタン的なモラルを称えたのだが──のなかに彼が見たのは「権力の再エロス化」という傾向である。フーコーはこの思考を実際には発展させていないが、もしそれをここで敷衍してみるなら次のようにいえる。70年代の観客にとって、権力に対し、それが戦後の世界において失ったといえるだろうエロスの機能を返してやるための唯一の方法とは──この機能に取って代わったのは熱狂的な消費だったわけであるが──、まさに、自らの場所が消費の対象として、痴呆じみた権力の道具としてスクリーンに表象されるのを見ることだったのだ、と。倒錯的な立場というものがあるとすれば、まさにこれこそがそうである。

 まさにこの点において鈴木則文のフィルムは我々を動揺させる。つまり戦争責任、ジェノサイド、原爆、ファシズム・イデオロギーといった物語を揺さぶる歴史的な問いの数々と、そして観客を彼ら自身の退廃的快楽に直面させるようなサドマゾやエロティックな審美的表象とのあいだの相関関係において。とりわけ『聖獣学園』がそれに当てはまるし、また特に『堕靡泥の星』が〈ナチ・ポルノ〉と同じように、観客のうちに穢れへの本能を刺激するだろう。達也は若く、美しく、そして裕福だ。紛れもなく彼は権力の魅惑的な像を構成する。つまり彼が一挙に為すのは魅了することと服従させることだ。そして彼の犠牲者たち、彼女らもまた非常に美しい。すべてのサディズム的シーンはそうやって悦楽と欲情をもたらそうとし、それによって非常に強度の唯美が確かな手付きで形作られる。これらは決して達也の問題とならない。ナチに自己同一化した彼は友人のひとりにこう打ち明ける。「『夜と霧』は僕のバイブルになった」〔訳注:ここではアラン・レネのフィルムではなくヴィクトール・E・フランクルによる原作のこと〕。そしてすぐさま我々は、収容所の写真に覆われた部屋でマスターベーションをする達也の姿を目にすることとなり、しかも彼は最後に死体置き場の写真に射精するのだ! そこには若さを巡る秀逸な定義が見られると、たしかにそう主張できようか。つまり若さとはすべてを消費し、すべてを享楽してしまう、そうアウシュヴィッツさえも! とはいえここから鈴木則文はすぐさま、このネオナチの為す数々の責め苦を称揚する立場に我々を置き、そして我々観客にそれを享楽させようとする。〈黄色い星〉への達也の崇拝に関しては、ほかならぬその意味作用の倒錯的転倒が──人種差別と恥辱の証明たるそれがここでは純潔の象徴となっている──物語のあらゆるパースペクティヴを歪めだし、拷問官と拷問に処される女性たちとの関係作用を理解しようとする試みをつまずかせ、そして通常ならそれを見出すことなどできないはずの場所に快楽と美の観念を導入してゆく。つまり『ソドムの市』におけるパゾリーニとは逆に、鈴木はイデオロギーを告発するのでなく、それを、唖然とするような、また不条理な混ぜ合わせのうちで押し進めて悪用する。そこにはスキャンダラスを引き起こすことへの快楽という口実さえない。というのも彼は自らがどれほどスキャンダラスであるかにどうやら無頓着だと思われるからだ。

 鈴木則文の作品との出会いから私に残されたものは、つまるところ深く両義的な感情である。その美学は大きな創意と才気に富んでおり、戦後のふたつの世代の結合線を見出そうという興味深い目論みにとって益するものであるのだが、残念ながら、同時に商業的な論理に捕われており、この論理が美学を麻痺させてしまい、さらには受け入れがたいものとしてしまっている。つまり、一方で疑いなく素晴らしい視覚的要素に私は魅惑された。たとえば『少林寺拳法』における格闘シーンのモンタージュや『不良姐御伝』における照明と色使いを見れば十分だろう。だが、もう一方で歴史的な所与の安易な使用法に対する拒絶の念がある。それはこの所与の歪曲への扉を開いてしまい、その正確な意味作用の忘却を招き、己自身の歴史にまつわる指標をすでに失った観客=大衆への甘い誘惑となってしまう。日本映画を興味深いものたらしめている点のひとつ、すなわちジャンルを混合し、さまざまな着想を交差させ、複数の物語を異種交配させる力はここにおいて限界点に突き当たる。政治が問題となるとき、一貫性への配慮は改めて必須のものとして求められることになるのだから。

(翻訳:松井宏)



[脚注 1] 達也への狂おしき愛を告白する少女さえ、実際のところ、実の父から性的に弄ばれるのである。

08 Nov 2006
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