フランソワ・ミュジー インタビューvol.3

インタビュー

目次

7.マルチトラック
……技術の進歩は素晴らしい……
8.音の響き
……『ヌーヴェル・ヴァーグ』は、CDとして聴けるくらいに音楽的なものに近づいていった……
9.音作りの全ての領域
……自分で録音した俳優の声は官能的に響くのです……
10.組んでみたい監督
……いまもっとも一緒に働いてみたい映画作家はイーストウッドです……



7. マルチトラックの使用
……技術の進歩は素晴らしい……

──技術的な面で、例えば『映画というささやかな商売の栄華と衰退』(1986)のようにヴィデオで撮影する場合、フィルムのときとは違いますか。

FM 35ミリで撮るときと変わりません。同じ考え方です。ただ実は、ジャン=リュックはずいぶんと長いあいだ「わたしは音構成も編集台上のふたつのリールでしか作業しない。ふたつしか手がないのだから」と言っていたのが、一度24トラックのテープを同期して使えるとなるとすぐにそれを使い出しました。いや、それでいいんですよ。矛盾したことを言えない人に限って、何もできないわけです。確かに一度に2トラックしか聴けない編集台では、10の音をつけようと思うと絶対にすべての音を聴くことはできないので、どのように構成をしたのかを確かめることができない。そういうものです。でもそこで、「隣でマルチトラックを使えば、構成したすべての音を聴くことができる」ということがわかれば……やはりこれはいいものですよ。これこそ常に求められていたことです。現在の音構成は、常にすべての音を同時に聞けるので、それ以前とはまったく違う考え方で作業ができる。その点での技術の進化は素晴らしいですね。それ以前は「この音はこの音と、この音はこの音と、全体でどうなるかはあとで」と言っていましたが、これではある時点で主題から離れていってしまいますから。

──現在でも映像のほうの編集は、編集台を使っているわけですか。

FM そうです。

──そのあとはどのように進めていくのでしょう。

FM 35ミリのシネテープの音はデジタルの音にリコンフォームします。AVIDでやるときと同じやり方です。ピラミックスにあるオリジナルの音のタイムコードをシネテープ上にも記録しておいて、そこからエディット・リストを作るわけです[14]

──とすると、音構成の段階はコンピュータを使ってするわけですね。

FM ただ、音構成というのは特殊な作業であって、多くの監督は音構成の作業ではなく、その結果のほうを気にかけるものですが、ジャン=リュックの関心は音構成の作業自体にある。彼の場合、撮影においてワン・ショット撮る、もうそのときから音構成のことを考えているわけです。映像と同レベルで、すでにショットそのものの一部分として、現場での録音の段階から整音の要素を内包しているのです。だから、彼にとって音構成・整音というのは、必要に迫られて後から付け足すものではないわけです。
 彼は映像を編集するのと同じくらいに音を構成するのが好きです。だからこそ音にもしっかりとした構造があるわけですよ。リコンフォームしたあとに、必要なものを付け加えたりはしますが、基本的な部分というのはすでに出来上がっているわけです。

──ゴダールの場合、だいたい何トラック使っているのですか。

FM それはちょっと意味のない質問ですね。あなたは音構成するときにいくつ使いますか。

──(使っていたプログラムは)24トラックの制限があったので……。

FM それはある意味うまい答え方ですね。ただ、これはなかなか難しい質問です……。今日映画が面白いのは、一般にどれだけのトラックを使っているからではなく、問題となるのは最終的な仕上がりですから。昔はトラック数というのはスタジオの重要なファクターのひとつでしたが、今となっては、結局それだけ一度に聴くことができる、それだけマスターテープを作りやすい、それだけ準備がしやすいという意味でしかない。それこそ、映画には創造的な部分と同時に、監督自身よりもプロダクションのほうが興味を持つ、作品の最終的なフォーマットというものがあるわけです。トラック数を自慢することはそこまで重要なこととは思えません。
 わたしが音の仕事を始めた頃は、24トラックで既にものすごいことだった。今では驚くほどのことではありません。確かにトラック数をいっぱい使った編集は多いですが、そのほとんどは音の選択がされていないわけです。選ぶことを学ぶ必要があります。「ここの状況音は最終的に必要だろうか?」と。間違えるかもしれませんが、「この映像にはこの音をつけるべきなのか?」と常に問わなければいけない。

──ただ、今日トラック数が増える傾向がありますね。

FM 当然あります。(短編などの)規模の小さい映画で100トラックなどというのもしょっちゅうですよ。ただ、一度それぞれ音の選択をしてみると、そんなにたくさんは必要ないわけです。トラックが多くなればなるほど、それぞれの音を聴く時間はどんどん増えていく。どんなフォーマットでも、3分の音はきっちり3分聴かなければいけない。するとそこにはいろいろな制約が入り込んでくるわけですよ──これはゴダールの作品のことではないですが──製作上のいろいろな制約、これだけのことをするのにどれだけの時間が必要か、どれだけの時間を使うことができるか、プロダクション側はどれだけの時間を割り当てているか、といったことに縛られざるをえないわけです。

──予算の規模によって仕事の仕方が変わるということはありますか。

FM それはないです。わたしのたったひとつの贅沢は(予算の多い少ないといったことで)悩むことのない機材環境を持っていることです。自分のスタジオを持てるということは、何をするにも必要なだけの時間を持てるということです。普通10時間はかかるだろうというところが2時間で済んだり、あるいはひょっとすると5分で済まさなければならないところを2日かけてやることもできるようになる。自分自身で時間の使い方を決めることができる。ある意味でハンマーを手にしたまま、2日間、一度も手を入れずに石を見ている彫刻家のようなものですね。音においても、何も考えが浮かばないまま2日間を過ごすということもあるわけです。もし、プロダクションがスダジオを借り上げて仕事をする場合、2日間真っ白なスクリーンを前にして「今日は、アイデアが浮かばない」というわけにはいかない。欲しかったのはそういう贅沢です。それを贅沢というなら……実際、これは金銭には置きかえられない贅沢ですよ。「今からこの音を聴いてみよう」、あるいは「外は天気がいいので、休憩にしてフィレ・ド・ペルシュ[15]を食べに行こう!」と言ったりできるわけです。


8. 音の響き
……『ヌーヴェルヴァーグ』は、CDとして聴けるくらいに音楽的なものに近づいていった……

──ゴダールの作品に特徴的な音、例えば雷や電話など、ゴダール専用のライブラリーはあるのですか。

FM 録音したものをデコードしてジャン=リュックに聞かせる。気に入れば使うし、気に入らなければ使わない、それだけです。そういった音はわたしが面白そうだと思って録音しておいたものや、彼が自分で録音したものを再度録音し直したものですが……。「ゴダールの」ライブラリーといったものはありませんよ。
 彼のほうから(他の音と)分離した鳥の声、何か孤立したもの、あるいは音楽的な句読点みたいなものが欲しいと聞いてくるときはあります。その場合はこちらでどうやったら「句読点」のようになるかを見つけるわけです。

──例えばゴダールの作品における車の音などはどうでしょう。ゴダールに限らずアンヌ=マリー・ミエヴィルの作品でもそうなのですが、例えば『私達は皆まだここにいる』(1997)の冒頭では、車の音が作品のストーリー自体と密接な関係にあります。とすると撮影中に音構成のことまで考えていらっしゃいましたか。

FM シナリオのなかで監督が何を求めているかを知るには、彼が何に関心があるかを知る必要もあります。つまり、普通どんな映画でも車の音はただの車の音ですが、ジャン=リュックやアンヌ=マリーの場合、車の音そのものの価値……おそらく車の音だけが、音楽も何も伴わずに作品のなかで用いられると分かっていますから、どこか音楽的なものになるよう録音する必要があるわけです。彼らの場合、車の録音は場所を厳密に決めた上でひとつのブロックとして使うわけです。そうすると録音のときは、ここと、ここと、ここと、というように録音しなければならない。一般的には、車のシーンといってもそれは走行音+台詞+車外の状況音+音楽でできていますから、たった1台の車で下手すると6トラックもの車の音になる。しかも普通、車の録音に2時間かけるようなことはしません。いずれにせよ、録音したものは-25dB下げて、台詞をかぶせてしまうので、走行音自体あったかどうか分からないことだってあるわけです。彼らの作品の場合はそれとはまったく違います。そうはいっても、これはジャン=リュックに限ったことではなく、他にも多くの監督がそういった音の使い方に興味を持っていますけれども。録音技師が考えるのはそのあとです。この機械の音を録音したい──どのマイクを使うか? こういった聞こえ方が望ましい──そこからじゃなく、ここから録音する、といったことを決めるにあたっては、まずそういった監督の意図ありきです。音の構図を決めるというのは、同時にどのような聞こえ方をして欲しいかということでもある。後でその音を聞かせて、「こんな音が聞きたかったんじゃない」と言われるかもしれないですが、そうしたらまた最初に戻ってやり直すしかないですよ。

──どのように聞こえるかという選択についてですが、例えば、『カルメンという名の女』(1983)でのベートーヴェンの弦楽四重奏のシーンでは、ミリアム・ルーセルがアップでカメラの前に写っているのに、音楽はそこから鳴っているようには聞こえません。

FM 当然ですよ、彼女は演奏してないですから! なかなか難しかっただろうと思いますよ。彼女は(弓を)どう動かせばいいかといったことは習得したけれども、そこから、彼女のヴァイオリンがちゃんと鳴るようにするには……。でも、そこはわたしには気になりませんね。もとからそういう考えで進められていたわけですし、作品の中で本当に演奏しているかどうかは問題になっていませんから。

──個人的には、映像と音とのずれのほうが面白かったのですが。

FM そうですね。実際『カルメンという名の女』は自分にとって特別なものだし、その意味で本当にいい経験だったと思います。ただ、内容は素晴らしいのですが、現在の技術を使えばもう少しうまくいったのではないかとも思っています。それこそモノラルのために失ったものは大きい。芸術的な意味では変わらないですが、ジャン=リュックが見せたかった暴力性といったことに関しては、当時の技術では不可能だったわけです。少なくとも目指していたところまでは辿り着けなかった。この作品をやった後、「どうにかやり方を見つけなくては。同録の音を使えないなんていうことはないはずだ」と思ったわけですよ。同じようなタイプの録音として、『フォーエヴァー・モーツァルト』(1996)でまったく同じようなことをやっています。ここでの銃器や爆発音などはすべて同録の音です。爆発音は後から強調されてはいても、その他はすべて同録のみです。
『フォーエヴァー・モーツァルト』に至ってやっと何か完結できたのではないかと思っています。『カルメンという名の女』でも、銃器の音は何もあとから付け加えない、すべて同録の音ですけれども、そうはいっても当時の技術でダイナミック・レンジを保ちながら機関銃の音を録ろうとすると……。今では確かにいろいろと学んで、どうすればうまくいくのか知っていますが、ただ当時の技術自体からして、それは不可能だった。映画館の音響技術にしろ、録音の技術、現像の技術にしろ、各段階で少しずつ元の強さを失っていって、オリジナルにあったのと最終的なプリントでは同じようにはならない。すべてをやり直すべきなのでしょうが、それには結局サウンドトラックを全部やり直さないといけないし、そうするともともと作品にあったものも失われてしまう……。
 質問に戻れば、確かに音楽に関して『カルメンという名の女』で問題にされていたのは、ヴァイオリンの音が本当に鳴っているか、ではなく、ビゼーのオペラではなしにベートーヴェンを、というのと同じような意味での「ずれ」のアイデアですよ。ベートーヴェンだとすれば、それをどのようにずらすことができるか。その点ではなかなかうまくいってると思います。でないと、毎回弦楽四重奏団が演奏しているのが映って、しかもそれを毎回撮影して、ということになってしまい、まったく違ったものになったと思います。
 ひとつ録音の仕事をしていてよかったと思えるのは、最終的には、観客のように距離を置いて作品を見られることです。何をやっても、あれはうまくいった、これはだめだったという後悔は常にありますから。

──ただ、この作品からというふうにいえるかどうかはわかりませんが、『フォーエヴァー・モーツァルト』などの近年の作品では、発せられる音の音源となるものが画面上からは減っていき、オフで聴こえる音の比率がどんどん増えていっているように思います。このことは、音は一応映像との係わり合いを持ちつつも、同時に音それ自体の存在感を強めてきている印象を与えるのですが。

FM 結局は、単純に音の構成がどんどん音楽的になってきているからではないでしょうか。それとやはり以前はあった技術的な障壁がなくなったからかもしれません。先ほど話したことですが、編集したすべての音を同時に聴けるようになったことが、ジャン=リュックのような創意に富んだ人には、「これこそ求めていた作業の仕方」だったんだということになります。これは実際、本当なんですよ。だからこそ『ヌーヴェルヴァーグ』(1990)は、CDとして聴けるくらいに音楽的なものに近づいていったし、そういった点で特殊なのです。これは彼がいつも言うこと、「オペラでは歌詞が聞き取れなくとも誰も文句を言わないが、映画で話している言葉が聞こえないと文句を言う」、これに近いことですよ。ただ技術的進歩というのはある種の言い訳であって、様々なことを可能にはしても、やろうとするアイデアがない限りそういった形にはならないですが。

──『映画史』(1988-98)について、何か他の作品とは違うといったことを感じられはしませんでしたか。

FM もちろん。これは彼の非常に個人的な作品なわけですから……。

──例えばゴダールの声の録音の仕方だとかは?

FM 声については、よくたったひとりで、自分で録音していましたよ。はじめの2章には皆いろいろと関わりましたが、その後は必要な機材を揃えて、外からの干渉がないような、絵描きのように彼自身のリズムで制作ができるような環境を作ったわけです。それこそがひとつの挑戦だったのです。

──音構成に関して、シンクロの音が非常に少ないことからくる違いというのはなかったですか。

FM それは……ムッシュー・ゴダールに聞くべき質問でしょう! 今までの作品もそうですが、この作品は非常に特殊な作品で、彼のすべてを捧げたものですから、それについてわたしが答えるなんて! 俳優を使ったいくつかの録音の部分には関わりましたが、その他はすべて彼ひとりでやることで、彼自身のテンポで進めることができたのです。わたしはそれでよいと思いましたし、それがこの作品を完成させる唯一のやり方だったでしょう。おそらくいろいろな人と一緒にやってもできない仕事だったと思います。これは画家の仕事のようなもので、画家がキャンバスをひとりで張ることができないときに手伝うとか、頼まれて手助けをするということはあっても、そのあとは……『映画史』というのは高さ6メートル幅15メートルのフレスコです。すべてを塗るのには時間がかかるわけですよ! ただ、こういった進め方でやらなかったとしたら、映画についての思考の跡としての個人的な側面というのは出てこなかったと思います。

──音楽の選択などに関わったりもしなかったのですか。

FM 技師が「この曲をここに使おう」と言うことはないですよ。そこは監督の領分です。「この曲はここから入るよりも、ここからのほうがいいんじゃないか」とわたしたちが言えば、監督はインの位置がどうしてそこなのかを説明するかもしれないし、ひょっとすると「それも悪くないな」と言うかもしれない。わたしたちが言えるのはそれだけですし、編集の作業につく人間も同じです。音楽の選択はほとんどの場合、監督のものです。その後、整音の段階で、もし本当に納得できない場合「わたしにはこの音楽がなんでここにあるのかわからない」と言うことはあります。ゴダールの作品ではありませんが、何度かそういうことはありました。


9. 音作りの全ての領域
……自分で録音した俳優の声は官能的に響くのです……

──さきほど、整音こそがやりたかったことであるとおっしゃられましたが、具体的にどうしてですか。

FM やはり整音の段階ですべての仕事が完結しますからね。音に関しては、この段階こそ一番クリエイティヴなところで、これは録音を別にすると、いや音構成も……。実際には、すべての段階が重要ですね。ゴダールの場合は最初の段階から考えていて、それも彼だけにしかないやり方なので特殊ですが、音構成というのは一般には、それによって作品の強弱を作ることができる。そこで何か取り戻すこともできるし、あるいはできるだけ俳優の声を尊重することもある。なかなか言葉では説明しづらいですね。なんといえばいいのか、これは音楽のようなものであって……。映像を見つつ、ふっと「ああ、ここにこの音を付け足そう、それとここにはこの音を」といった具合にやっていくものですからね。どんな映画でもそうです。
 一度議論したことがありました。『フォーエヴァー・モーツァルト』のとき、同録での爆発音のところは2台のレコーダーに分けて録音したわけですが、そうはいっても爆発は危険でないようにコントロールされているので、ものすごい爆発音にはならない。そうすると本当らしい音の感じを出すのには何か足りないわけです。そこで音を足したのですが、わたしのやったのは整音のときではなく、(映像の編集のための)同録の音を渡すときに既に爆発音を足したものを渡したわけです。編集のときにジャン=リュックが常にちゃんとした音を聞けるようにするためです。これはごまかしたのではなく、事前に話し合って決めたことですが、単純に同録の音にはそこのところが欠けていたためです。もし火薬を爆発させると、どうしても録音できない部分がでてくる。というのも、そもそも隣で3人の俳優がしゃべるという設定ですから。単純な話、スタンドインは使わない、トリックやSFXは使わない、するとものすごい爆発音は録音できない。映像はうまくいっている。そこで、ちょっと爆発音を加えれば、というわけです。それ以外に映画の仕事でといえば、やりたいのはすべての音に関する仕事ですし、そのためのスタジオの構築です。どのようにスタジオを構築するかは同時に、どのように仕事をしたいかというのと同じことですが。
 自分にとっての理想的な仕事道具となるようなスタジオが欲しいと思ってきました。そこでは整音のためのスタジオを構築して、同時にそこで音構成もできるようにしてあります。この贅沢とは、音構成の段階からすでに最終的な段階の音を聴くことができる。存在するすべてのシステム、2種類のドルビーやDTS[16]、すべてのものを通したあとの音をスピーカーから聴けるので、音構成の時点で「これだと、思っているのと違うから、ではこうしよう」といった具合にできる。こういった自由を求めて自分のスタジオを持ったわけです。もし同じことをパリでやろうと思ったら、パリでなくてもどこでも、ものすごいお金がかかりますから。

──ただ、録音、音構成、整音とこなされていますが、技師の中には現場での仕事よりもスタジオに篭るのを好む人もいます。

FM それはその人が決めることで。わたしにとっての映画の音とは作品全体に関わることです。確かに現場での仕事はとうに辞めて整音のみに専念することだってできたはずですが、やっぱりそこで失うものがあるわけですよ。撮影現場でしか感じえない不思議なものがね。録音技師と俳優たちとの関係というのは非常に特殊なものなわけですよ。これは整音だけをやっていては持ちえないですから。自分で録音した俳優の声というのはまったくの別物です。どこかすごく官能的というか。


10. 組んでみたい監督
……いまもっとも一緒に働いてみたい映画作家はイーストウッドです……

──自由の追求ということには、監督の選択も含まれますか。シナリオを読んで気に入ったものを選ぶとか……。

FM ただそれは、いうなれば、常に出会いですからね。いい出会いもあれば、「これはこの1本でおしまいだな」というのもあるわけで。

──自分から監督に電話するというのはないですか。一度は仕事をしてみたい監督はいらっしゃいますか。

FM 誰だろう……。そうですね、ひとりだけ、機会があればやってみたい監督はいますね。クリント・イーストウッド。この監督はものすごい人だと思います。これは個人的な感想ですが……ゴダールと同じように、たったひとりで自分の世界を築き上げた人です。音楽、ジャズにも造旨が深く、第一、彼自身ミュージシャンで、大変な量の仕事をしています……。

──『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)も含めてすべて評価されるのですか。

FM 『センチメンタル・アドベンチャー』もいいですし、『バード』(1988)も素晴らしい。すべての作品に何か見るべきところがある。それほどよくない、例えば『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』(1986)のような作品でも、仕事全体を通して、思考の発展として、ひとつのクレッシェンドがある。常に何か追求しているものがあります。それに俳優に対する自由さ。まぁ、イーストウッドについては何時間でも話せますけど、それはまた別の機会に……。もし一緒に仕事をするならということですが、まずは英語をきちんと話せるようにしてからでしょうしね。イーストウッドの他には……カサヴェテス。でも、もう遅いか。ほかにも一緒に仕事をしたい人というのはいます。ただ、尊敬し、かつ好きな監督と、すでにこれだけ仕事ができる機会に恵まれていますから……。

──若手の監督では?

FM 常に自分に言い聞かせていることですが、古典主義的になったり、ひとつのカテゴリーに縛られないための一番いい方法とは、(自分が)変わっていくことです。若手の監督との仕事というのは思考を広げることでもあります。時には彼らのやり方に納得できないこともありますが、ほかに素晴らしいところを見つけたりもするし。年齢は問題ではなくて、要は監督として尊重できるかどうか。

──ただ、録音技師のプロとしての領分を強調なさっていますが……。

FM ただプロであるというだけでは、たいした意味はありません。ある領域についてその名に恥じない仕事をする。自分の求めるレベルに到達しようと切磋琢磨し、常にそのレベルを押し上げることが肝心です。常に何か学ぶことがあるのです。プロフェッショナリズムとはそういったことを尊重することですよ。もし逆に「こうすればできたから、これからも常にこうやろう」というようになってしまったら見るに堪えませんね。毎回、役所仕事では面白くないですよ。毎朝現場に行って、何とかして最高の音を録るように創意工夫する。誰も違いは分からないと思っていてもです。もしそういったひらめきのようなものがなくなれば、楽しみはなくなったということで、他のことをやるべきでしょう。釣りに行くか、ピザを焼くか……。ただ、ピザ作りは、いい加減にはできない。録音と同じですね(笑)。

──ご自身で映画を撮ろうとは思われませんか?

FM わたしがですか? まさか! 駄作のリストに名を連ねないためにも、20年、いや25年前に録音に専念すると決心したわけですから……。 

──スイスにとどまっておられることについてはいかがでしょう。また、スイス映画についてのコメントをいただけますか。

FM これは個人的な理由です。安らぎといったらいいか。パリでの動向から離れて……。一緒に仕事がしたいという作家で、それでもここまでやってくることを承諾するというのは、ある意味、本当の出会いですよ。パリからTGV に乗ってロールまで来てもらったら、こちらも頑張らなければとなりますからね。例えばそれが短編であったとしても、短編の後に長編をやってというふうに……。スイスに残るというのは安らぎを持つためですね。わたしはスイス生まれですし。毎年4ヶ月はパリで仕事をしますが、それでもパリに住みたいとはまったく思わないし、必要だとも思いません。文化的動向だとか、第一線にいるためにパリに住むというのは……。そういったことに縛られなかったのも、逆によかったと思います。10年ほど前ですが、おかしなことに1度、このままスイスに残らずにパリに住もうかと考えたことはあります。でもここに残ったというのは、居心地がよかったからなのか、無理に何かをする必要がなかったからか……。土地との結びつきといったらよいのでしょうか。ここにいて、一緒に仕事をしたい仲間と作品を作る。それでもなかなかうまくいってると思います。ローマにいるソルディーニ監督が、はるばるスイスに整音のためにやってくるというは、本当にそうしたいと思わなければできないことですよ。確かにゴダールがいるというのはありますが、彼の存在だけでなく、現在のわたしとゴダールの関係が監督と技師以上のものになり、非常に実りのあるものだからです。ただ、それが部外者からどう見られているかは分からないので、そのことについてはなんともいえませんね。

(2003年8月4日、ジェノヴァにて。 インタビュー・構成:初井方規、土田 環、ヴィクトル・ガイヨ)

[完]



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脚注

14. シネテープの音は……
シネテープは35ミリ(あるいは16ミリ)と同サイズの、パーフォレーションの入ったアナログ磁気テープ。編集台での編集時、同録の音をシンクロさせるのに使う。このテープ上に録音テイクごとのタイムコードを入れることで、編集後にどのテイクのどこからどこまでの録音を使ったかを参照し、リスト化(エディット・リスト)することができるわけである。

15. フィレ・ド・ペルシュ Filets de perch
スイスの郷土料理。湖で獲れるペルシュと呼ばれる淡水魚をフライあるいはムニエルにしたもの。

16. 2種類のドルビーやDTS
ドルビー・ステレオとドルビー・デジタルはともにドルビー社のサラウンドの技術。ドルビー・ステレオは4チャンネル(Left-Center-Right-Surround)をマスター作成時に2チャンネル(Lt-Rt)にエンコードし、再生時に元の4チャンネルにデコードする。以前からある光学録音のトラックをそのまま使うことができる。ドルビー・デジタルはドルビー社が1991年に発表したデジタル技術。AC3と呼ばれるエンコード技術によって6チャンネル(Left-Center-Right-Left Surround-Right Surround-Low Frequencie Effect)のデジタル信号を再生可能。フィルム・プリントのパーフォレーションの間にマトリックス化したイメージを読み取って再生する。DTSはアメリカ、DTS(Digital Theater System)社のデジタル技術。ドルビー・デジタル同様6チャンネル・デジタルであるが、音源はCD-ROMで配布され、フィルム上に記録したタイムコードと同期することで再生する。1993年に『ジュラシック・パーク』で初めて導入された。

08 Nov 2006
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