ミイラは普通動かない──黒沢 清『LOFT』

film ]  黒沢清
衣笠真二郎

 芥川賞受賞の経歴もある新進気鋭の小説家(中谷美紀)は、新作の執筆に行き詰まってしまったことから気分転換のために引っ越しすることを思い立つ。殺風景な都内のマンションから緑あふれる郊外の一軒家へと居を移した彼女は、その家の真裏にすすけた廃屋を発見する。その建物はある大学の研究施設として利用されているという。長身の考古学者(豊川悦司)がそこに出入りし、なにやら人のかたちをした梱包物を持ち込んでいるのを目撃してしまった彼女は、こっそりその建物に侵入し、それが何かを確かめる。ビニールの梱包を取り払うと、そこに現れたのは1000年前の女性のミイラだった……。

 視線が欲望を生み、欲望が人を誘い、対象へと接近させる。小説家は、裏窓からかいま見た他人の秘密に魅了され、ついにはミイラと接触してしまう。考古学者のほうでもそれとほとんど同じように、研究の目的でミイラに惹き付けられていたのが、見つめれば見つめるほどそのミイラに魅了され、自分のためだけに所有したくなってしまう。見つめることが事件を生む。『LOFT』は視線のサスペンスをめぐる映画だといえる。

 だが、ことはそう単純ではない。『LOFT』において視線が事件を生むとき、奇妙なことに、その事件はひとつではなく必ずふたつなのだ。たしかに視線のサスペンスはときに人々を愛の関係に導き、ときに人殺しへと導くことはヒッチコック以来よく知られるところだ。だが『LOFT』の場合、ふたつの事件が別個にではなく同時に起こるという点がきわめて特異なのだ。たとえていえば、『ドッペルゲンガー』(2002)ではふたりの役所広司が別々に存在していたが、あたかもそのふたりを無理矢理ひとつの人格に押し込めてしまったかのように、そんな雰囲気を持った事件が巻き起こっていくのだ。しかも、事件を追って行くにつれて、映画自体も二重の輪郭を持った相貌を呈し始める。ここに『LOFT』のおそろしさがある。

 まず、それは兆候として現れる。フィルムの冒頭、小説家と編集者(西島秀俊)がオフィスで打ち合わせをする場面。新作執筆の進捗具合や引っ越しの物件などについてふたりが言葉を交わしていくなかで、構図/逆構図のリバース・ショットを積み重ねていけばよいものを、あるとき画面がふたりを捉えたところでカットが割られると、不可解なことに、ほぼ同じアングルからほぼ同じ構図でふたりが捉え直されているという、画面つなぎみられるのだ。カットが割られる前と後でカメラはわずかにポジションを移動しているようなのだが、フレーム内に捉える映像には大きな変化を生み出してはいない。カットによって時間が省略されているわけではないから、いわゆるジャンプ・カットでもない。あたかも、右目でファインダーをのぞいていたカメラマンが急に気分を変えて、左目でファインダーをのぞける位置にカメラをポジショニングし直したかのような、いささか気まぐれにも似た、無意味なカッティングがなされているのだ。映画の中盤にも何度かみられるこの種のカッティングが説話的な効果をあげることはほとんどない。いってみれば、ふたつの映像の間にある微妙な差異を見る人の記憶にかすかに残すことぐらいが、その役目であったにすぎないだろう。

 次に、視線が事件を生む前に、その視線の対象が明瞭に示される。隣人がミイラを保管していることを知ってしまった小説家は、知人にその調査を依頼し、同一のミイラを記録した80年前のフィルムが現存していることをつきとめる。そのモノクロのサイレントフィルムには、寝台の上に横たわるミイラがコマ送り撮影で記録されており、そこに「5月○日」と書かれた紙片が時々挿入され、丸一日の時間がこの記録映像ではたった数10秒にすぎないことを知らされる。その間、撮影対象となったミイラは微動だにせず横たわっている。つまりそのミイラは数日間少しも動くことがなかったのだ。ミイラは文字通りのミイラであり、動かぬ物体としてそこに静止し続けていたというあきれるほど明らかな事実が、このフィルムには記録されている。

 「ミイラは普通動かない」ということをストレートに描写してみせたこのシーンがきわめて美しいのは、映画全体の中であらゆる虚構からもっとも自由に解放されているのがこのシーンであるからだ。またそれと同時に、このシーンがきわめて誠実であるのは、後の事件において対象となる存在——ミイラ——がその正体をありありとさらしているからだ。換言すれば、このシーンはこういうことを予告している。つまり、静止しているはずのミイラが動き出し始めるときに、この映画における事件が生起するのだと。

 ところで、『LOFT』の登場人物たちの動作には、感情がきわめてストレートに表象されている。それは黒沢清のこれまでのフィルムではみられなかったほど誇張されているといってよい。なかでも、『ニンゲン合格』(1999)においてどこまでも透明な存在になろうとしていた西島秀俊が、『LOFT』においては感情をその身体全体で表すことに努めている。停電になった一軒家で、中谷美紀になにか幽霊だと勘違いされて西島秀俊は懐中電灯で殴られると、頭を両手で押さえて「イテー!」と絶叫する。ストーカーまがいのしつこさで西島秀俊が中谷美紀に詰め寄ると、部屋から閉め出され、しまいにドアに手を挟まれる。するとすかさず「ドアに手はさまれちゃったよ!」と叫んで手のひらを硬直させながら身体全体で痛みを耐えてみせる。これらを感情の「自然な発露」とみるよりも、むしろ身体所作によって感情がねつ造されているとみるほうが自然なほどに露骨である。さらに、このような感情表現は西島秀俊だけではなく、中谷美紀そして豊川悦司の演技にも多くみることができる。ある残酷な悪夢にうなされた彼らは、決まって「やめてー!」「ギャー!」と叫び声をあげて眠りから目覚めるのだ。リアクションとしてはあまりに誇張されすぎているそれらの感情表現が、「夢オチ」そのものを相対化ししらけたものにしてしまっているのは明らかだ。そしてこの映画において感情表現の極北に鎮座しているのが、「名子役」という出自を持つ安達祐実であることはいうまでもない。安達祐実が、死者の身体(ミイラ)として動き始める瞬間に、映画は「地獄」へむかって一気に加速する。

 実は、彼らが感情的な演技をしているときの「痛さ」こそが、ここでの鍵なのだ。映画が虚構に向かってひた走っているときに、同時にそれを崩壊させてしまうことの「痛さ」。不可視のそれを浮上させ、人に触知させることに『LOFT』は賭けられているといってよい。これが事件の真相である。

 問題はミイラである。横たわるミイラを捉えた記録映像は、未だ虚構に侵されていないものであった。それは文字通り、死体状態の映像だった。ゆえにそこに「痛さ」はなかった。だがそれも、映画に安達祐実が徘徊しだし、その影に小説家と考古学者がおびえ始めるときの、そのときの「痛さ」を明瞭にするためのゼロ記号のようなものだったのだ。ある決定的なシーンで、研究標本にすぎなかったミイラがむっくりと起きあがり、考古学者と対峙するだろう。彼はすかさずミイラの虚構そのものを崩壊させてしまうような言葉をミイラに浴びせかける——「動けるんだったら最初からそうしろ」。するとミイラはその場で砕け散る。崩壊の強度はこのとき絶頂に達する。

 虚構と崩壊との間にある不可視のものを「痛さ」として浮上させたように、ホラーとコメディーというふたつのジャンルの間にある不可視のものも明瞭にしておくことを黒沢清は怠っていない。最終部で、映画が危うくコメディーの側に落ち込みそうになるとき、考古学者はある決定的なことを忘れている。それは死だ。この記憶力を欠いた考古学者——なんたる虚構/崩壊ぶりだろう——が、幸せに小説家と唇を重ねていられるのも、死を忘却している間だけだ。死が目に見えるもの——ミイラ——となって浮上してきたとたん、重ねた唇は引き離され、コメディーは一気にホラーへと暗転する。

 ホラーとコメディーの間にある微妙な差異は、ある視点の取り方によって浮上する。映画冒頭の不可解なカット割りはそのことを示唆していたのだ。横に移動して、別のアングルから見つめ直すこと。正面から見るだけでなく、斜めからもうひとつの視線を送ってみること。それによって浮き上がってきた微妙な差異が、死の表象であったのだ。それはちょうどホルバインによるだまし絵「大使たち」を思わせる。タブローは正面から見つめていると単にふたりの大使を描いた肖像画にすぎないが、左下から見上げてみるとふたりの足下に髑髏が浮き上がる。あるいは、その「大使たち」に着想を得たアルノー・デプレシャンの映画『魂を救え!』(1992)を映画は想起させるかもしれないし、また同時にサム・ペキンパーの『ガルシアの首』(1974)をも思い出させる。いずれにしても、他者の死(体)が問題なのだ。


『LOFT』
監督・脚本:黒沢 清
撮影:芦澤明子(J.S.C)
美術:松本知恵
録音:深田 晃
音楽:ゲイリー芦屋
キャスト:中谷美紀、豊川悦司、西島秀俊、安達祐実、加藤晴彦、大杉 漣
2005年/日本、韓国/1時間15分
9月9日より、テアトル新宿ほか全国ロードショー

07 Nov 2006
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