Trans-Lovers、ノスタルジーに逆らって──ホウ・シャオシェン『百年恋歌』

石橋今日美

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 私たちは知っている。現実あるいは空想の世界で、目にした光景、出会った人々、触れ合ったものは、監視カメラで撮ったように、無差別かつ自動的に私たちのうちに記録されるものではないということを。記憶は意識的な判断に関わらず選択的に形成され、私たち自身に、そのルールの決定権はない。そして、さまざまな過去の断片から、ひときわ現在の感情や欲望に彩られたものが、「甘美な」思い出として思い起こされる。ホウ・シャオシェン(以下HHH)の新作『百年恋歌』は、パーソナルな思い出と歴史的記憶に、監督としてのキャリアを重ねた作品のように見える。1966年、ビリヤード場のスコア係の女性と兵役に出る青年の淡い恋。1911年、政治的動乱の中で、ひそやかに想いを交わす外交官と芸妓。2005年、見えない傷と孤独を抱えながら、激しく求め合う若い恋人たち。全編、スー・チーとチャン・チェンを主演に、その題材と様式から、HHHの青年時代を投影した第一部「恋愛の夢」は『風櫃の少年』(1983)、第二部「自由の夢」は『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(1998)、第三部「青春の夢」は『ミレニアム・マンボ』(2001)を想起させるだろう。HHHによれば、失われてしまった日々であるがゆえに「最良のとき」(原題『最好的時光』)として思い出の中でよみがえる時間。映画作家による自身へのオマージュのように交錯する3つの時間は、果たしてノスタルジーに向かっているのだろうか?


1.
 確かに第一幕は、甘酸っぱい恋の情感にあふれ、見る者をいわば夢として演出された記憶に誘う。とりわけ90年代のHHH作品において、ひとつの時、「時光」は、異なる光によって特徴づけられるが、ここでも独自の照明設計が非現実的な印象を強める。ビリヤード場の中と明るい戸外の鮮明なコントラストによって、登場人物のシルエットは外光に輪郭を「食べられて」いるように浮かび上がる。あたかも、夢で見た人物を現実に思い描こうとするときの形象のように。そして、時空間が組織される手法は、ますます夢のロジックに接近する。冒頭、青年が自転車をこぐ場面をのぞいて、主人公たちが乗り物に乗るショットは、ほとんどコンセプトとしての移動に切り詰められ、現実に横断された時間や空間のリアリティー、80年代の作品群が謳歌する生々しい運動感は希薄だ(若者がヒロイン、シウメイの実家を訪ねるくだりでは、地名標識だけが入れ替わり、移動手段さえ示されない)。さらに特筆すべきは、ある朝、シウメイが兵役中の青年の手紙を受け取ったところから始まる一連のショットだろう。シウメイが以前、彼がハルコという先任の少女に宛てた手紙を偶然読んだときと同様、彼女が手紙を読み終えると、音楽が聞こえる。が、同一のものではなく、エピソードのメイン・テーマ、Aphrodite's Child の「Rain and tears」だ。この曲にのって、画面は夕刻、ビリヤードに興じる客たち、日中、建物の2階で女主人に別れを告げるメイ、階下で後継の女の子に挨拶をして去ってゆく彼女、船上の後ろ姿へと切り替わり、曲が終わる。最後の3ショット以外、実際には、それぞれ別の日の出来事を描いているシークエンスだが、音楽の効果によって、クロノロジックな亀裂は感じられない(衣装・髪型の変化を子細に観察しない限りは)。時の流れ自体が、HHHにとって記憶を託す重要な媒体、Aphrodite's Childのメロディーと文字通り、渾然一体となり、見る者に混じり気のない陶酔感を与える。

 もし本作が、現在から過去へ、時系列に沿ってさかのぼり、上述のエピソードで終わっていたら、失われた時を見出す、ノスタルジックな幸福感あふれるフィナーレになっていただろう。しかし、HHHはそうした後退的な快楽を敢然と拒んでいるかのようだ。第一話と後続のエピソードは、互いに参照し合いながら、対照的に組み立てられ、私たちは夢から覚醒してゆくことになる。


2.
 遊郭に灯りがともされ、「一九一一年」と明示される画面から、南管の女性の歌唱に聞き惚れていると、スー・チーの唇が声なき動きを見せ、サイレントであることにはっとする第二幕。前編に対して、このパートの際だった差異は、明白な断続性にこそ時間の連続性があるということだ。過去の時は、断片化された記憶によってしか再生されない。各シークエンスは、比較的長い暗転であからさまに区切られ、「翌日」「六日後」「三個月後」などの文字が、ランダムに挿入される。無声映画のスタイルを踏襲している以上、当然の選択と言うべきか。だが、不規則なユニットに切断・圧縮される時の経過は、ここでは奇妙な無時間性を帯び、出来事はリアルな時間軸から遊離した「どこか」で展開しているかのようだ(辛亥革命勃発の告知だけが、私たちを乱暴に歴史的現実に引き戻す)。作品世界に遍在的に響く南管の歌声が、芸妓の唇の動きと不意にシンクロし、サイレントの秩序が揺らぐその一瞬だけ、彼女は「今、ここ」に確かに存在する。こうした効果は、一歩も戸外に出ることなく、ランプの灯りと磨りガラス越しの光の移ろいの中に生きるヒロインのあり方と無縁ではないだろう。ただし、ここでの時間の抽象性が、第一部の夢心地とは異質であるなら、閉塞的な空間もまた、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』の芸妓たちの住まいと同じではない。

 外の風景さえ見えない主人公の部屋は、現実世界と外交官チェンとの疎外感、同じ今を共有しているはずなのに生まれる、心理的・物理的「時差」を引き受けるためにある。部屋の中で、男と女が見つめ合うことは少ない。ふたりは同一フレーム内にあっても、女は鏡台に向かい、男は背中越しに彼女を見る。あるいは男は鏡に向かい、女は背後からチェンの礼服を整える。ようやく視線がしっかりと交わるとき、それは女が密室からの解放、妾になることを望むときだ。けれども、外の世界を自由に旅する男は無言のまま、瞳を閉じてしまう。キャメラは男女を別々のカットに収め、ふたりの間の決定的な溝を強調する。自由の可能性を絶たれた芸妓は、隣室で歌唱の稽古を始めた新入りの少女にそっと唱和して、日本からの男の手紙、毛筆の文字を指先でなぞり、こぼれる涙をぬぐう。

 ここにいたって、ビリヤードは単に思い出の象徴ではなく、異なる時間を貫くモチーフであると分かる。最初のパートでは、青年からハルコ、ハルコからシウメイへと、手紙を介して登場人物の関係は、玉突きの軌跡のように発展した。第二話では、主人公は妹分の芸妓の持参金の援助を男に頼み、自らは密室から外部へ向かう岐路から外れる。ただし、前者において、主人公たちのすれちがい(若者はシウメイの出発後、彼女のもとを訪ねる)は、物理的に克服することができ、彼らはつかの間の再会を果たす。しかし、後者において、新しい時代の空気を呼吸する男と伝統的な芸の道に縛られた女との時差はもはや修復不可能だ。彼からの手紙は、共通の未来にひと言も触れない。

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3.
 複数のビリヤードの球の運動のように進展する登場人物たちの関係。結びつこうとする男女が直面する時差。これらは、最終章、現代の台北において一種のクライマックスを迎える。完全に外界からの光から遮断され、巨大な暗室と化したマンションに住むカメラマンのチェンと歌手のジンにとって、すべては早すぎるか、遅すぎる。出会ったふたりは性急に惹かれ合い、チェンの彼女はあっけなく彼らの関係からはじき出される。彼は、ジンと一夜を共にした後、写真現像所のパソコンからアクセスしたネット上で、彼女が歌手であること、その存在の暗部を知る。また、部屋に残されていた、ジンが首からさげていたカードで、彼女が重度の喘息持ちであると分かる。

 他者の存在とリアルタイムで向き合いたいと願うこと自体、残酷なジョークであるかのようだ。ジンと同棲する少女は、嫉妬心と応答のない携帯電話に耐えきれず、衝動的に死を選ぶ。彼女がヒステリックに書き殴った遺書のメールを読み、恋人が永遠に姿を消した部屋で体を横たえるジン。もはや死の事実をリアルに悲しむタイミングさえ致命的に失われてしまったかのように、彼女の瞳は涙に濡れることはない。パソコンのディスプレイ、救命カード、携帯電話の着信記録、チェンの部屋の壁を覆い尽くす写真、ジンが微笑むモノクロのポートレート……。痕跡としてあらゆる表層に残された文字とイメージによって、すなわち誰かが何かを残し、それが他者の目に留まるまでの時差によってしか、人々は関わり合うことができない。恐らくそのために、チェンがステージ上のジンを見つめることで記憶にとどめる代わりに、執拗に近づいて、彼女の痕跡をフィルムに焼き付けたように、最終話のキャメラはクロースアップの多用で、恋人たちに肉迫しようとするのだろう。たとえ、克明に映し出される顔が、不透明な面として、内なる感情の真実をシールドしてしまうとしても。


4.
 遺書さえも、光速で書き殴り、ヴァーチャルな時空に投げ出すことができる時代。ポール・ヴィリリオはかねてから警告していたが、光速のネットワーク・コミュニティーの中で、「遠さ」と「近さ」は、物理的距離においてだけでなく、時間的においても混乱し、電子的表層、都市生活にあふれる多様なインターフェイスの上で溶解してしまう。その結果、事物に対する心理的な「遠さ」と「近さ」の尺度もカオスを免れない。手応えのある過去と未来のパースペクティヴから切り離された、事物とそのイメージが、混合・融合しては、光の速度で消え去ってゆく眩惑感。それが私たちのリアルさの実感を形づくっているなら、私たちはいかなる「現在」に立脚することができるのか? 還元すれば、何を基点に、一体どんな思い出を呼び起こすことができるのか? 『百年恋歌』がノスタルジーに浸るどころか、すぐれて現代的であるのは、蔓延する潜在的な「記憶喪失」の危機を前に、過去とのつながり、記憶のあり方を果敢に模索しているからだ。完成したジンの曲をようやく私たちが耳にする作品のラスト、走り去ってゆくチェンとジンのバイクを、キャメラは振り子の運動で追走する。彼らがこの世界を抜けて、新たな地平にたどり着く確信はない。しかし、私たちは、彼らに続いて、HHHと共にどこまでも走り続けてゆくことだろう。



『百年恋歌』 最好的時光 THREE TIMES

監督:ホウ・シャオシェン
脚本:チュー・ティエンウェン
撮影:リー・ピンビン
編集:リャオ・チンソン
音楽:コンスタンス・リー、Kbn、リン・チャン キャスト:スー・チー、チャン・チェン、メイ・ファン、ディ・メイ、リャオ・シュウチェン

2005年/台湾 /131分

26 Sep 2006

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