バーレスク俳優、トム・クルーズ──J・J・エイブラムス『M:i:III』

三浦哲哉

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 指先に神経を集中してなにがしかのオブジェを操ること、こうした手作業の豊かなヴァリエーションが俳優トム・クルーズのキャリアを彩ってきたことは、そのフィルモグラフィーを一瞥すればあきらかだろう。『ハスラー2』(1986)、『トップ・ガン』(1986)、『カクテル』(1988)、そして『デイズ・オブ・サンダー』(1990)と、トップスターに登り詰める過程で彼は多くの特殊技能の持ち主を演じてきた。自動車のハンドル、ビリヤードのキュー、カクテルのシェイカー等々が次々とトムの手に握られる。さすがにF14戦闘機の操作とまではいかないだろうけれど、しかしカクテル作りやビリヤードやドライブの腕前は、磨きに磨いたうえで現場に臨んだに違いない。『宇宙戦争』(2005)の冒頭、一場面でだけ見られるクレーン操作でさえ、トムは現場に入る前に練習して覚えてしまったというが、実際、彼は劇中で披露することになる芸当、職能を本当にマスターしないと気が済まない人らしい。トムのスターとしての魅力は、あらゆる芸当を難なくこなしてみせる万能人の余裕に裏打ちされている。

 『ハスラー2』の一場面、キューを構えて目標を定めた後、トムはおもむろに首をひねって背後の人物に軽口を叩く。そうかと思うとそのままの姿勢で手玉を一突き、すると衝撃音とともに的玉は見事ポケット・インしてしまう。この手の鮮やかな曲芸は決まって例のビッグ・スマイルで締め括られる。トムのトレードマークともいえるあの得意満面の無邪気な笑みは、彼の両手から繰り出される離れ業と組み合わされたときにとりわけ説得力を持つ。カード・マジックのような小手先の芸でもよいのだが、まずはじめに周囲の注目を集める離れ業が繰り出され、そのうえでトムは達人だけに与えられた凪のような冷静さを楽しみつつ、目を丸くした聴衆に向かって悪戯っぽい笑みを惜しみなく振りまくのだ。芸当をこなしつつ笑い、笑いつつ芸当をこなすトム。彼のスターとしての輝きは、まずその両手から生み出される。

 ところで、演じられる技がかなりレベルの高いものであることは間違いなく、また、スタッフたちが口をそろえて俳優トムの学習能力の高さ、運動神経の良さを証言してはいるものの、スクリーンに映る彼の動作には、器用さの印象がない。というより、トムの一挙手一投足には常にぎくしゃくとした違和感がある。彼がグラブを握り、キャッチ・ボールをする場面などにしても、観客の印象に残るのは、なによりその投球フォームのどこかチンパンジー的なこわばりではないだろうか。ビリヤードの達人を演じるときも、あるいはカクテル・シェイクの名人を演じるときも、いかにも自己流で芸を身につけた人間に特有のわきの甘さがひっかかる。そしてもちろん、トムのアクションの持ち味は、スポーツ・ライクな滑らかさや効率にはない。運動神経のよさだけを問題にするならば、トム以上の人間はいくらでもいるだろう。それでも彼が突出した“肉体派”のアクションスターだといえるのは、むしろその動きの無駄なところ、非効率的な部分のためであろう。例えば、高所から落下しそうになったときにやじろべえよろしく両腕を水平に大きく広げてみせるときのトムが発散する魅力を、近年ほかの誰が持ち得ただろうか。そもそも、あの走り方のただならぬ魅惑は何だろうか。誰もが知るように、指先をピンと伸ばしたからといって人間は早く走れるようにはならない。ただ、急がねばならない状況で、より早く走ろうという一念があの真っ直ぐに伸ばされた指先に表れてしまうこと、その自己流の身体感覚こそが貴重なのである。できるだけ早く走る=できるだけ指先をピンと伸ばすという等号を、トムという個体が現実に生きてしまっていることがそれだけで感動的なのであり、だからこそ彼はただ走る姿、ジャンプする姿だけで観客を魅了することができる希有な俳優なのである。そして前述した通り、彼の両手に道具が握られたとき、その魅力は倍加する。例えばサンドイッチ作りという状況が与えられるやいなや、ショータイムが始まり、バンズや具材をリズミカルに並べつつ、トムの手は躍動し始める。これまで、優れた監督は彼のそうした一面を見事に引き出してきた。スピルバーグの『マイノリティ・リポート』(2002)に、トムが装置から転送されてきた映像断片を次々に整理していく場面があるのだが、これはその典型だろう。トムが透明のスクリーンに両手をかざし、ひねったりずらしたりしながらそれらの映像を次々と処理していく光景を見ていると、こんな操作をすることで作業効率があがるのだろうかという疑問も浮かぶのだが、肝心なのは、ビリヤードやカクテル作りがそうだったように、両手でものを操作するときにこそトムが光り輝くという一点である。

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バーレスク俳優、ハロルド・ロイド
 あのビッグ・スマイルと共に常に余裕ある佇まいを保ち続けるトムの健全さを称えて、アメリカン・ニューシネマのアンチ・ヒーローたち以前に活躍していた屈託ない往年のハリウッド・スターの誰それになぞらえるものもいるけれど、それをいうならトムはさらにそれ以前、バスター・キートンやハロルド・ロイド的なバーレスク俳優により近い存在ではないか。俳優トム・クルーズの資質は、あきらかにキートンやロイド、さらにはチャップリンのそれと同質であるように思われるのだ。例えばチャップリンが台所などに入り、フライパンやナイフやりんごといったオブジェを手に取りさえすれば、それだけで充実した手と事物のスペクタクルが生まれしてしまうのと同様に、トムもまたそうした動作の魅惑だけで画面を活気づけることのできる俳優である。そして、チャップリンがあの独特の歩き方をしつづける限り、どんなシチュエーションにおいても常にチャップリンであるのと同様に、トム・クルーズは何をしようともトム・クルーズである。白いブリーフを履いて性愛の素晴らしさを演説しようと、サムライになって刀を振り回そうと、往年のバーレスク・スターたちと同じく、彼のアクションの自己充足ぶりこそが魅惑の源泉なのである。

 そういうわけで、トムがポーラ・ワグナーと共に設立したワグナー・クルーズ・プロダクションの看板企画のひとつが「ミッション・インポッシブル」シリーズであるのはまったく腑に落ちることではあるのだ。なにしろスパイたちが暗躍する世界なだけあって、トムを輝かせることになる小道具にはそれこそ事欠かないからだ。そしてタイトルの意味するところにも改めて注目したい。「ミッション・インポッシブル」=「不可能な任務」。タイトルからしてすでに物語としての合理性を捨てる宣言をしているわけであるが、このシリーズは従来のスパイ・アクションやサスペンスといったジャンルよりも、ごく単純なバーレスク映画に近い。少なくとも、シリーズ第1作から最新作への道のりは、常套的なサスペンスの衣装を脱ぎ捨て、それこそハロルド・ロイド的なバーレスクへと純化する過程であったと思われる。第1作『ミッション:インポッシブル』(1996)に関していえば、監督のブライアン・デ・パルマの嗜好もあったのだろうが、懐古的ともいえる古典的サスペンスの手法が踏襲されており、例えば、トムを天井の通気口からロープで支えるジャン・レノのところに1匹のねずみが近づいていって思わずレノがロープを握る手を緩めてしまうというような、単にアクションを引き延ばすためだけのディティールが律儀に使用されている。90年代的な快速アクション映画のトレンドにあえて背を向けるかのようなデ・パルマの演出にはある種の矜持を感じなくもない。しかしこの第1作で成功していたのは、なによりTGVとヘリコプターが共にトンネルに突進していく、あの『キートンの大列車追跡』(1927)を彷彿とさせるクライマックスのほうではなかっただろうか。そして現実に、「ミッション・インポッシブル」シリーズはバーレスク路線へ傾斜していくことになる。

 続く第2作『M:I-2』(2000)は、ミッションそっちのけで男たちが官能的な濃密バトルへ逸脱していく紛れもないジョン・ウー・タッチで撮られている。ジョン・ウーがシリーズのバーレスク化において果たした役割は大きい。最後には銃器やナイフにいたるすべての道具を投げ出したふたりの肉弾戦が延々と続き、これまでのハイテク合戦はなんだったのかといいたくもなるが、ともかく、いかにもジョン・ウー的な祝祭空間の享楽性に、あのラロ・シフリンのテーマ曲はよく映えた。この作品から一挙にトムはノン・スタントの過激アクション路線へ深入りすることになる。そして最後の肉弾戦シーンひとつとってみても、際立つのはそのバーレスク的無償性だ。相手を倒すための冷徹な実効性、例えば総合格闘技の残酷なそっけなさとははっきりと距離がとられ、「フライング・ボディー・」の接頭語がつきそうな技を飽きることなく繰り返す彼らに漲るのは、プロレス的、あるいは組体操的美学である。決め技はトムのドロップキックなのだが、よくみると真の決定打になったのは後頭部にぶつかった岩であり、それまでの技にはどれも実効性がなかったことを証し立てるオチがつく。このようなアクションの自己目的性を際立たせ、それゆえ「ミッション・インポッシブル」シリーズ全体の方向性を決定づけたのは、だがなによりも冒頭におけるトムのロック・クライミング・シーンだろう。赤々とむき出しになった巨大な断崖絶壁が屹立する峡谷、それと対照的に青く冴え渡る空が空撮ではるかに捉えられていくと、やがて遠くに豆粒のような人影が垂直に切り立った断崖の中腹にひっかかっているのがわかる。カメラはだんだんとその影に近づいていく。トム・クルーズである。スパイの休暇。誰もみていない場所で、ひとりロック・クライミングに興じるトムの姿がそこにはあった。そう思っていると、彼は足を踏み外し、あれよあれよという間に片手で宙ぶらりんの状態になってしまう。のっけから絶体絶命なのだ。だが、右手の指先だけがかろうじて岩にひっかかっている状況から、トムはあらぬ方向に体重を移動させつつ体を反転させ、後ろ向きにのけぞるようにして左腕を伸ばし、逆手で岩の突起を掴む。岩壁に対して仰向けになったトムの顔にカメラが寄ると、例のビッグ・スマイル。さらにくるりくるりと回転しながら岩肌を移動し、やがて見事に登頂に成功するのであった。この場面はトム自身の発案によるものだというが、ここでのポイントは、トムは仕事であろうと休暇であろうと、自らスリルを求めて行動していく存在であるということだ。ミッションがあろうがなかろうがトムはトムであり、極論すれば、果たすべき任務よりも、自身の身体的享楽こそが上位にあるというわけだ。

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 この場面が決定づけた「ミッション・インポッシブル」シリーズの基本精神は、J・J・エイブラムス監督によるシリーズ最新作『M:i:III』(2006)でさらに徹底される。荒唐無稽なアクションが矢継ぎ早に繰り出され、もはや伏線を張る手間すら惜しいという案配なのだ。マギー・Qやジョナサン・リス=マイヤーズら脇を固めるメンバーはおろか、トムが葛藤劇を演じることになるはずの妻(ミシェル・モナハン)の描写すら徹底的に省かれる。アクションシーンの高速化には目を見張るものがある。デ・パルマの第1作から10年、テクノロジーの世界は長足の進歩を遂げており、なにしろ技術力がものをいうスパイの世界が題材である以上、諸々の設計も変更を余儀されないのである。例えば、かつてジャン・レノが必死でトムをぶら下げていたロープはいまやデジタル設定で自動的に高さが調節される。ねずみが怖くて手が滑る、というような悠長な仕掛けが入り込む余地はもはやない。象徴的なのは、第1のミッションで登場する透視カメラと4連機関銃だろう。攻略すべき建物は、この超高性能カメラによって一気に丸裸になり、カメラに映った人影は、自在に動く機関銃で一斉掃射され、これで任務はあらかた片がついてしまう。スパイ・サスペンスの空間設計が、かつて不可視の敵を囲う闇、死角にあったことを思うと、透視カメラの存在は決定的である。さらに第2作から登場した衛星カメラ、その他もろもろの通信機器、洗練された移動手段などによって、かつてじわじわと観客の緊張を煽りつつ踏破されるほかなかった空間的な距離は、いまや限りなく抽象化してしまった。無尽蔵の技術力、資金力に支えられたIMF(インポッシブル・ミッション・フォース)なる機関にバックアップされた彼らは、いよいよ距離の劇としてのサスペンスから遠ざかろうとしている。たしかに、「ミッション・インポッシブル」シリーズのタイトルバックでは毎回、時限爆弾の導火線映像が使用されているし、いたるところでタイムリミットが設けられてフィルムの持続を区切ってはいるのだけれど、あと何分、あと何秒という限界は、しかしほとんど空間的距離に基礎をおいておらず、ただモニター上に点灯する数字としてしか表現されない。したがって、空間的、時間的な分節に関していうと、ここにあるのはサスペンスの形骸でしかないのだ。しかし、『M:i:III』は、多くの形骸的サスペンス映画が陥りがちなクリップ的スペクタクルショーにはならなかった。それはもちろん主演俳優でありプロデューサーでもあるトム・クルーズの存在あってのことだ。つまり、本作は『M:I-2』の延長線上において、躍動するトムの身体に基礎をおいたバーレスク映画としての洗練を目指し、これに見事に成功しているのだ。

『M:i:III』の作劇術は、ひたすらバーレスク的な機能主義に徹している。例を挙げればきりがないが、第1のミッションにおいて、人質として捉えられた味方エージェント(ケリー・ラッセル)の扱い方にそれがまず端的に表れている。車イスにくくられ、衰弱して歩くこともおぼつかない彼女を連れ出すために、トムは躊躇せずその心臓にアドレナリン注射器を突き刺す。そんなに簡単なものなのかどうか知るよしもないが、ともかく彼女は一挙に覚醒し、銃を乱射しつつ戦場を駆け抜ける。そうしてヘリコプターに乗り込むのだが、しかし安心したのも束の間、彼女の脳内には小型爆弾が埋め込まれており、そして激痛に悶え苦しむ。即座にトムは電気ショックで爆弾の回路をショートさせることを決断する。「心臓も止まってしまうぞ」と忠告する仲間に対しては、「もう1回やれば、また生き返るさ」と断言。アナログ極まりない動力学的論理で世界が機能することへの痛快な確信があるのだ。また、今回もっとも困難なミッション、上海の超高層ビルに保管された「ラビット・フット」という謎の目標を盗み出す作戦においても、取られた方策は、振り子の要領で片方のビルからもう片方へ飛び移るという原始的な発想から生まれている。高層ビルを眺めながら、ちょうど窓越しに映るビルの輪郭をマジックペンでトレースするトムは、この案の現実性を仲間に説得しつつ、手を休めずに、続けて窓ガラスに「D=……」というような方程式を一気に書き殴っていくのだが、いったいなんの計算をしているのかはまったく不明である。ただ観客は、彼の手が生き生きと躍動するとき、あらゆる事象がトムの肉体的論理の支配下に入り、不可能すらも可能になるだろうことを確信するしかない。そして実際、何十メートルもの振り子の先端からほうりだされてトムが超高層ビルの天辺に着地したとき、その光景を呆然とみつめる相棒のようにこう呟くことになるのだ。「やるとわかってたよ(I knew you'd make it)」。このように荒唐無稽な予定調和が次々と成立する『M:i:III』において、トム・クルーズはいよいよバーレスク俳優としての資質を開花させたといってよいだろうと思う。

 余談だが、『M:i:III』公開後、そんなトム・クルーズがパラマウント社から契約を解除されたというニュースが入った。理由として、新興宗教サイエントロジーへの傾倒、さらにパラマウント社上層部が入れ替わり、彼が所属するエージェンシーとの関係が見直されたから、などの諸説があるが、その中には、テレビ番組出演中にカウチソファーの上で、拳を握りしめながら飛び跳ねるなどの目に余る奇行のため、というものもあった。アメリカでは「jump the couch」という新語が生まれたらしい。この解雇劇の真相はともかくとして、スクリーン上のイメージに関していえばまぎれもなく奇行の人であったトム・クルーズが、ソファーの上で飛び跳ねるぐらいの光景を意外というにはあたらないだろう。バーレスク俳優としてのトムの魅力で収益を得てきたパラマウント社が、トムのバーレスク的所作を非難して解雇したのだとすれば不条理な話だ。だが幸いなことに、今後トムは、パラマウント以外の制作会社と、これまでと同様の内容で契約することができるようになったという。今後のさらなる活躍が期待される。



『M:i:Ⅲ』 Mission: Impossible Ⅲ

監督:J・J・エイブラムス
脚本:J・J・エイブラムス、アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー
撮影:ダニエル・ミンデル
音楽:マイケル・ジアッキノ
テーマ音楽:ラロ・シフリン
出演:トム・クルーズ、フィリップ・シーモア・ホフマン、ミシェル・モナハン、ヴィング・レイムス、マギー・Q、ジョナサン・リス=マイヤーズ、ローレンス・フィッシュバーン、ケリー・ラッセル

2006年/アメリカ/186分

26 Sep 2006
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