マケットについて──ポンピドゥー・センターに展示されたゴダールのインスタレーション

平倉 圭

 ジャン=リュック・ゴダールによる教育的インスタレーションとして構想された展覧会、「コラージュ・ド・フランス」は、2006年2月に放棄された。今夏ポンピドゥー・センターのgalerie sudで見ることができるのは、その残骸である。新たな展覧会は、「ユートピアへの旅:JLG, 1946-2006 失われた定理を求めて」と題されている。会場には、「芸術的、技術的、財政的困難によって」企画が実現できなかった旨を伝える文章が何カ所にも出されている。

図1 (クリックで拡大)
 実際、galerie sudの1,100平米の空間は巨大すぎたようだ。おそらくこれは、映画『パッション』(1982)のような映画セットの予算を要求するインスタレーションであり、当然ながら挫折している。あとに放置されたのは、ゴダール自身の手による展覧会のマケット(図1:展示されたマケットのひとつ。筆者によるスケッチ)と、その部分的な実現である。

図2 (クリックで拡大)
 会場には、展示の貧しさを覆い隠すための「埋め草」が多数置かれている。横倒しにされた巨大な足場、壁面の空白を埋めるために天井から垂らされたコード(図2)、床面の空白を埋めるために置かれた板や鉄格子(図3)、など。展示スタッフによる配慮だろう。いくつかは、現代美術の展示で利用されるクリシェである。しかし空白を埋め、観客の身体的経験を満足させようとするそれら「美的な」配慮は、結局ゴダールの企図を見え難くすることにしか寄与していない。ゴダールのマケットは、そもそも観客の身体などまったく問題にしていなかったからだ。

図3 (クリックで拡大)
 ゴダールが制作したマケットのなかには、レヴィナスやハイゼンベルクの本がそのまま釘付けされていたり、実現すれば高さ2メートルを超えてしまうような大きすぎるベッドやテーブルが置かれている。一方、展覧会場には、模型の鉄道が敷かれ、空間に対して小さすぎるベッドやキッチン、テーブルセットが備え付けられ、展示全体のマケット的雰囲気を高めている。つまりここにあるのは、マケットとして計画され、部分的にはマケット状態のまま実現されてしまったインスタレーションである。スケール、すなわち観客の身体に対する効果を無視することにおいて、展示とマケットの貧しさの有様は通底している。

 展示されているマケットは全部で13ある。そのうち9つは、底面積1平米くらいのマケットで、残る4つはその半分程度のサイズのプレ・マケットである。9つのマケットはそれぞれ、「神話」、「人類」、「カメラ」、「フィルム」、「同盟(無意識・トーテム・タブー)」、「ばか野郎」、「現実」、「殺人」、「墓」と名づけられている。

図4 (クリックで拡大)
 もっとも多くの要素が凝縮されているのは、「カメラ(LA CAMERA)」と呼ばれるマケットである(図4:以下《カメラ》と表記)。《カメラ》の壁面には大小ふたつの水車が挟まれ、水車の羽根の部分に砕かれた鏡が敷かれている。大きい水車はクリプトンライトで照らされ、小さいほうはモーターによって回転している。回転する羽根のひとつにフィルムの断片が貼り付けられ、マケットの床をなでている。

 回転する水車の下には、ボルトとナット、スパナが置かれている。部屋の内部には、破壊された車のプラモデル、ガラス片、額縁に入った花の絵、鋏、ひっくり返された机が散乱している。机の上には小さなモニターが置かれ、『カメラを持った男』(ジガ・ヴェルトフ監督, 1929)からの抜粋で、鋏で切られるフィルムや反復的に動く機械や人の姿がループ映像で映し出されている。机のそばの壁には本棚の写真。そこにバタイユの『呪われた部分』が直接釘付けされている。

 『呪われた部分』の斜め向かいには、頭が隼、頭上に太陽をいただくエジプトのラー神(RA)の人形が置かれている(「CAMERA」の「RA」に掛けられている)。背後に「ABII NE VIDEREM (私は去る、見ることもないままに)」というギヤ・カンチェーリの曲から取られた言葉。そのとなりの壁面には2台のiPodが仕込まれており、首吊りにされた男たちと、性交する男女の映像がループで映し出されている。

図5
 iPodの右手前には、ゴヤの最晩年のエッチングである『ブランコを漕ぐ老人』(図5)が切り抜かれて吊るされている。老人のブランコは約10分に1回、壁に仕込まれたスピーカーから流れるシャンソンに合わせて激しく揺れる。その背後には、同じくゴヤによる素描で、手足を縛られ首輪で柱につながれた女性の姿が見える。マケットの全体は乱雑に黒く塗られている。

 

図6
《カメラ》が扱おうとするイメージは明白である。それは、(1)撮影するカメラ(あるいは映写機)を示すふたつの円筒が回転する「暗い部屋」のイメージであり、そこに(2)バタイユ的な性と死の交錯、あるいは蕩尽のイメージが挿入されている。だがそこで示されようとしている観念は曖昧だ。なぜ、ブランコなのか。この組み合わせによって思考されようとしているものはいったい何なのか。

図7
 視覚的印象から再出発しよう。《カメラ》が示しているのは、蕩尽、というより蕩尽のミニチュアである。その空間的効果はむしろ、子供のおもちゃや、プレ・シネマ的な幻燈や見世物装置に近いものだ。同様の空間は『ゴダールのリア王』(1987)のなかで、ゴダール演ずるプラギー教授が用いていた「マケット」に見出すことができる。プラギー教授は小さな靴箱に窓を開け、箱のなかに恐竜の人形を置き、電球で照らすことで、映画館の「マケット」にしてみせていたのだった(図6)。続くシーンでゴダールは、靴箱に開けられた窓の縁に細工し、人物の影絵を作りだしている(図7)。そのおもちゃ的幻燈の感覚は、《カメラ》のマケットが与えるものにきわめて近い。

図8 (画像クリックで拡大)
 ゴダールには、「マケット的思考」の系譜と呼べるものがある。『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1967)における箱=団地(図8)や、『中国女』(1967)で毛語録を投げつけられる模型戦車(図9)は、そのいちばん早い例だ。特に『中国女』では、舞台となるアパルトマン自体がマケット的空間として構成されている。黒板として使われる壁、抽象的に塗り分けられた室内。そこに配置される単純な家具やメディア(図10)。その室内は、今回のインスタレーションの姿ととてもよく似ている。──すると、今回のインスタレーションもまた、いわば映画のセットとして計画されているのだろうか? つまりここに欠けているのは、「撮影」なのではないだろうか?

図9
 会場ではいくつかの映画が流されているが、そのうちのひとつ、『ユートピアの思い出』(アンヌ=マリー・ミエヴィル監督, 2006)は、まさに今回展示されているマケットの内部を小型ビデオカメラで「撮影」してみせたものだ。そのとなりでは、ゴダールが、フランシス・F・コッポラのスタジオを借りて撮影した『Une bonne à tout faire』(1980/2006)が上映されている。スタジオで撮影中だった『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)に出演するふたりの女優が、巨大なラスヴェガス・セットの片隅で着替え始める。照明が落ちる。女の手元に明かりが灯り、突如ふたりはジョルジュ・ド・ラトゥールの完璧な活人画として浮かび上がる。縦横に動くカメラが、ラトゥールの女たちの上空を滑っていく──。たしかに、「撮影」が必要なのだ。今回の展覧会の「貧しさ」とは、カメラを通してではなく、私たちの身体を通して経験されてしまった映画セットの貧しさなのだ。

図10
 だがしばらく私たちは、この貧しさにとどまっておこう。いずれにしても今回の展覧会場で撮影は許されていないのだから。観客が目にするのはマケットである。《カメラ》の暗い空間のなかで、ブランコを漕ぐ老人や、性交する男女や、水車は、反復運動を続けている。それらはひとつの箱の中にあり、複雑なオルゴールのようにひとつの装置を構成している。すべては明白に示されており、その意味するところは曖昧だ。ゴダールの「マケット的思考」には、常にこの明白さと曖昧さの結合がある。

 理解する、とは日常的な意味においては、物事の記号をリニアな時間的順序に並べて納得の形式をつくることだ。だがマケットのような空間的に展開された記号において、理解するとは、諸要素のあいだに対応の「線」を複数引いていくことでしかない。マケットを理解することは、この「線」の密度を上げていくことである。その明白さは諸要素の物理的現前に、その曖昧さは、理解がリニアな形式に落ちないことに由来している。

 

図11 (クリックで拡大)
 老人が漕ぐブランコは、性交や、ヴェルトフ的人物の反復運動と対応し、「吊られている」ことにおいて首吊りの男たちと対応する。首吊りの映像は首輪でつながれた女性の素描と対応し、また下段から流れる性交の映像といっしょになることで、ふたつのゴヤの絵画をバタイユ的な問題圏へと開いていく。バタイユの本と、向かい合うエジプトの太陽神ラーは、太陽を見る(ことができない)というテーマにおいて対応する。部屋に置かれた鋏はヴェルトフ映画の鋏と対応する。回転する水車は、反復運動の系列と対応すると同時に、別のマケットから実現された奇怪なパラパラ漫画装置──縦長のスピーカーにモーターで回転するパラパラ漫画が連結し、その足元にフロイトの本が置かれている(図11)──と対応しながら、プレ・シネマ装置の空間を展覧会場全体へ拡張していく。パラパラ漫画装置のそばには、ロゼッタストーンの複製と、それを3つに切り分けようとする鋏が置かれており、エジプトと鋏というテーマを《カメラ》の外で結び合わせている。

 これらの、絡みあった対応を見出していくということそのものが、《カメラ》というマケットを理解することだ。そしてその対応は、いまだない対応へと開かれている。

 マケットは、記号である。しかしそれは、言語のような記号ではない。すなわち、意味するものと意味されるものの恣意的対応によって特徴づけられるような差異のシステムではない。マケットは、それ自身の物理的諸性質に意味作用の基盤を置いている。だが同時にマケットは、それ自身の物理的現前において実在しない。マケットは来たるべき実在の模型であり、それは不在の未来に類似する。マケットとは、諸要素の純粋な布置において在らぬ未来の出来事に先触れ、それを産出しようとする未‐類似記号である。そしてこの布置の抽象的な産出性こそ、ここで「線」と呼んでいるものだ。マケットにおいて対応の「線」が引かれるのは、マケットを構成する諸要素の間だけではない。マケットは、自らを貫いて、不在の未来へと「線」を引く。私たちの知覚には、そのような「線」を見出す次元がある。

 

図12
ゴダールはそのような「線」を見出す知覚を、ひとつのイメージによって例示している。ギャラリーの南側壁面、鉤十字をはじめさまざまな「十字架」を集めてみせた場所に、2枚の素描が貼られている。1枚は磔になった人物。もう1枚は、異端審問に処された女性を描いたゴヤの小さな素描だ(図12)。女性は「別の所で生まれた」という咎により、有罪者の徴である紙の尖り帽子と、「サンベニート」と呼ばれる紙の上衣を着せられている。サンベニートの背中には大きな「X」字。ゴダールはその「X」字の上から、それを素描の外にまで延長する大きなX字をマーカーで書きつけている。するとそのX字は、女性の脚と、傾けられた女性の首の角度に正確に対応するように見えてくる。身体を貫いて引かれるX字のダイアグラムによって、女性は磔にされている。

 私たちの知覚が見出す「線」は、別の、美しいイメージとしても示されている。サンベニートを着せられた女性のずっと右上のほうに、空に浮かぶ南十字星の水彩画が留められている。4つの星を結んで引かれるクロス。「線」を見出すとは、無数の星々のなかに、星座=布置(constellation)を結ぶことだ。

 展示は貧しく、いびつな、しかし、無数に重ねあわされた星座=布置からできている。そのすべてに「線」を引くことは可能ではないし、たぶん生産的なことでもない。私たちはただ、いくつかの「線」を身に刻んで、出て行くことができるだけだ。

 

「ユートピアへの旅:JLG, 1946-2006 失われた定理を求めて」

 ポンピドゥー・センター(パリ), galerie sud, 5月11日〜8月14日, 2006年

28 Jul 2006
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