菊池信之インタビュー with 青山真治vol.1

インタビュー

Introduction

 本インタビューは、菊池信之氏が録音として参加した『エリエリ・レマ・サバクタニ』が公開されたばかりの2006年3月6日、渋谷のユーロスペース事務所で行われた。録音技師の菊池氏は、青山真治、諏訪敦彦、萩生田宏治、ジャン=ピエール・リモザン、そして小川紳介らの監督作品にこれまで関わっている。無論のこと作品ごとに音の設計は異なるのだとしても、しかし菊池氏が手がけた音には共通するひとつの特徴があるように思われる。つまり、映像と溶け合ってただ単に消えてしまうのではなく、むしろ目と耳を同時に覚醒させずにいないような強烈な喚起力がそれだ。中でもとくに印象的なのは、『エリエリ』の冒頭を思い出していただきたいのだが、菊池氏が選び、増幅させる風の音である。木々を揺らし、布をはためかせる風の音がそのつど空間を賦活(ふかつ)させるのだ。
 以下に読まれる本文では、菊池氏の独特の音がいかに作られるのかを聞き出すべく、小川プロ時代の経験から語っていただいている。後半からは青山監督を交えながら、近作における「録音」、「整音」の実際について語っていただいた。(インタビュー・構成:初井方規、入江宗則、三浦哲哉)



目次

1.小川プロ時代
……外で3日も4日も音を録ってこられるなんて幸せな時間でした……
2.劇映画での再出発
……もうメチャクチャに戸惑いっぱなしでした……

vol.2
3.音の発見
……音と出会ったときにどう交流していくのかっていうのが一番大事なことであってね……
4.ミキシング-現実の再構成
……なにかを打ち破っていくような空間性が出ればいいと思います……
5.ガンマイクとワイヤレスマイク
……基本的にはガンママイクひとつで録れたらいいと思います……

vol.3
6.スタッフワーク
……「風が吹かないね」っていったら、青山さんは「そういうところなんじゃないの」っていうのね……
7.シンクロと無意識
……予測を裏切られたときに、人は拠って立つ所を奪われます……



1.小川プロ時代
……外で3日も4日も音を録ってこられるなんて幸せな時間でした……

──まずはベーシックな質問からはじめさせていただきます。プロフィールを見ると、『パルチザン前史』(1969)では「協力」として、 『日本解放戦線・三里塚(通称『三里塚の冬』)』(1970)では「撮影助手」としてクレジットされていますが、そもそも映画とは、どのように関わりを持たれたのでしょうか。

菊池:僕が映画と関わったのは、大学が終わったときに、まともに就職しようとしても成績が悪かったし無理だろうなという思いがあったのと、学生運動をやっていた連中が卒業と同時にいろんな企業に吸い取られていく、その姿を見てなにか違和感を感じていたこともあったからでしょうね。それと、ちゃんとした志ではなかったけれど、スチールカメラマンになりたいなという気持ちもあったんですよ。そんなこんなで卒業して、どうしようかって考えていたときに、ちょうど小川プロで、まあドライバーっていうか、映画の世界でいえば「制作進行」、あるいは「助手」みたいなことをする人間を探してるっていうから、そこに入っていったんです。最初は1ヶ月ぐらいといってたんだけど、1ヶ月が2ヶ月、2ヶ月が半年、半年が1年、2年っていうふうになってしまって。僕が参加したのは『三里塚の冬』、正式には『日本解放戦線・三里塚』という作品です。で、これの撮影が2年ぐらいかかったんだよね。「撮影助手」とクレジットされているけれど、当時はちゃんとした「撮影助手」がいましたね。

──映画学校出身の方が「撮影助手」としてふたりいて、でも途中でやめてしまったそうですね。

菊池:うん。なんかの都合でいなくなって。フィルム・チェンジする人がいないと困るから、僕も一緒に荷物を運びながらそれをやるようになったんだけど、いわゆる「撮影助手」とは違うよね。

──福田克彦さんが書かれていたことなんですが、『日本解放戦線・三里塚の夏』(1969)と通称『三里塚の冬』との間に撮影の大津幸四郎[1]さんや演出部の方も含めてかなり人員の入れ替わりがあったようですね。「撮影助手」のふたりの方もその時期にやめてしまったということですし、そこで同じく運転助手だった清水良雄[2]さんと「撮影助手」になった、ということですね。

菊池:そうそう、僕と清水で行ったんですよ。

──ちなみに学校の卒業は何年で、『三里塚』の現場に入ったのは何年のことだったんですか。

菊池:卒業は、昭和でいうと43年だったような気がするな。

──撮影の途中から入られたということですね。

菊池:ちょうど始まったところだったね。

──小川紳介さんたちとは何かつながりがあったんですか。

菊池:いや、何もない。友だちがね、そういうことをやりたいなら、そういう人間を探しているところがあるよって教えてくれたんです。それでなんとなく。流れだよね(笑)。

──学生運動との関わりについては?

菊池:ないない。特に何にもないよ。

──スチールカメラというのは、例えばどんな写真のことだったんですか。

菊池:うん、そう聞かれるのが嫌だからさっきも「志がなくて」っていったのに(笑)。兄貴がやってたから、写真に対する興味はあったのね。まあ、いまから考えてみると、報道的な写真のことを、そのときは考えていたのかもしれないけど。でもそんなにたいした志はなかったです。もちろん写真に対する興味はありましたけど、でもむしろ後になってからのほうが強くなったかもしれませんね。でも漠然とした感じだったですよ。だから、後から言葉にすると、なにか意味があったようなことになるけどさ、でも本当はそうじゃないじゃない。もっと漠然としてるわけですよ。その中から言葉を拾うと、意味が出てくるけどさ。批判めいたことをいうつもりはなくて、ただ、後から出てくる話とも関係してくるんで。つまり、ひとつの意味に捕われる態度がどうなのかなって。

──スタッフ編成に関していうと、例えば『青年の海 四人の通信教育生たち』(1966)に出演されてた栗林豊彦[3]さんが、のちにスタッフとして採録や録音助手をやっていたりと、かなり流動的だったみたいですね。菊池さんも、最初は運転助手として入られて、『日本解放戦線・三里塚』では「撮影助手」になられ、そして山形の『ニッポン国古屋敷村』(1982)では「現地録音」、『1000年刻みの日時計』(1986)では「録音」となっているのですが、このあたりの経緯は?

菊池:それは、人がいないからやっただけで、空いてたからね。「お前、音録れ」ってなことで始まっただけで。

──流れですね。

菊池:そう、流れ。

──菊池さんが参加された頃もそうだったと思いますが、機材や経済的な事情でシンクロ(同時録音)はやりたくてもできなかったという状況があったわけですよね。例えば『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』(1967)[4]の頃はアリフレックスの普通の16ミリキャメラで撮影しているためにキャメラノイズが入ったり、長回しができなかったりといった限界があったわけですし、通称『三里塚の冬』でも2、3シーンのみ同時録音だったというような…[5]

菊池:いや、その当時は録音をやってなかったですからね。僕がまことしやかにものをいうよりも、田村さんあたりに聞いた方が具体的でしょうね。僕はそのとき車の運転手にすぎないわけだから。

──たしかにそうですね…。『三里塚・第二砦の人々』(1971)あたりから、全編でフランス製のキャメラ、ボリュー[6]が使えるようになって、キャメラノイズは入るにせよ、シンクロ対応できるようになったと聞いております。そういった過程を経て『三里塚・辺田部落』(1973)で、エクレール[7]やナグラ[8]を使って、シンクロで長回しにも対応できるようになり、同期で、そのときの印象、雰囲気みたいなものを逃さずにそのままの感じで録ることができるようになった、と[9]。菊池さんは「制作」だったわけですけれど、小川プロのなかで、シンクロで撮ることを巡って話し合いなどされたことはあったんでしょうか。

菊池:僕ははっきり覚えてないし、上映のために地方の事務所にいたからなんともいえないけど、同時録音できない状況で撮影してたら、誰でも同時録音したくなるじゃないですか。それで、機材のやりくり、お金のやりくりをして、できればいいねってことはあったけど、そこでシンクロであることの意味、ないことの意味を特別に論議はしないでしょう、普通。そういうことは外から評論家なりいろんな人が解釈をすればいいことであって、いま僕が話すことではないような気がするのね。

──ドキュメンタリー作品であるから、シンクロの長回しがしたくなったまでということなんですね。

菊池:うん。書き手としてはそこんとこの話をすれば書きやすいのかもしれないし、ただ僕は当時、録音の立場にいたわけじゃないし。僕も後からみて、『辺田部落』のシンクロはどうだったって思うことはあるけども、このインタビューの中で滔々と語ることではないような気がするよね。

──ええ。現在の録音技師という立場から発言することで、また別の意味も出てしまうということもあるわけですしね。わかりました。僕らが興味をもったのは、同期録音をずっと求めて『三里塚・辺田部落』へと至った後に、今度はアフレコで音を作っていく、という方向になっていったことです。(菊池さんが「録音」としてクレジットされている)『1000年刻みの日時計』に関しての小川紳介さんの発言で、例えば、稲の作業をするときに、同期録音で録った音は、やっぱり自分たちが農作業をしながら聞く、あるいは聞こえてくる音とは違うといわれていたことなんです。だから、同期録音とは違うリアリティを求めてアフレコというか、例えば田んぼの泥をスタジオに持ってきて音を作ったとか?[10]

菊池:それはまったくウソです。

──え、ウソだったんですか…(絶句)

菊池:ええ。そういったほうが話がわかりやすいから小川さんはそういってるだけ。一度、挑戦したことはあったね。オレがそのとき録音で、盲腸で入院しちゃってたこともあったから、スタジオで試してみたことがあったんです。で、そんなのうまくいくわけがない(笑)。小川さんとしたら、マイクに入った音をそのまま使うんじゃなくて、もっと心象に基づいた音を作りたいっていうことで、それを試してはみたんだけどね。でもうまくいかなくて、ただ彼の気持ちの中では「そうしたい」ということが「そうした」ということにいつしか変化しただけ。まったくのウソです。

──ということは……

菊池:そういう音はいっさい使ってないです。『1000年刻みの日時計』は、久保田(幸雄) [11]さんがミキサーとして入ってんだけど、音を構成したり音を作ったりというのは僕だったから、一切ないです。残念ながら(笑)。ただ、現場で音を拾い集めたうえで、音を構成し直したということはありましたね。いまはプロツールズ[12]っていうパソコンの音のソフトがあってすごく便利だけど、あの頃はなくて、だから6ミリ[13]で録った田植えの音とか、田んぼの中をグジャグジャ歩く音とか、現場で録った音を拾い集めて、画につけていくんです。まずはフィルムをビューワーで転がしながら、足が田んぼに入った、足が抜けた、苗をよりわけた、ポチャンって水に入った、そういうの全部を頭から何フィート、何フレームって、まず記録を作って、入れていく。一度、時間軸に計算し直すんだけど、6ミリってのはだいたい1秒が19センチで動くことになってんだよね。それを1秒につき24に分割して、そこから何秒何フレームのところでジャボンって音を入れるか決めるんだよね。だから田植えのポチャポチャいう音は、全部、1本のテープに収めて、もうひとつは、水音というか、足が抜けたり、入ったり、しかも単純にピチャピチャいうだけじゃなくて、ズボって入ったり、ムニュって入ったり、入った後でボコボコって水音が出たりとか、そういうの全部、作っていくわけですよ。トラックを分けてね。そしてそこにベース音として全体的な音が入ってきたりする。農道を車が通ればその音を入れたり。だから、6ミリだけで7、8本くらいになったんじゃないかな。それを、シンクロできる機械なんかじゃなくて、フィルムにパンチを入れていって、フィルムとテープが同じ位置になるようにひとつひとつやっていく。50何秒かのカットでしたけど、相当時間がかかりました。僕も訓練された録音技師じゃなくて、素人みたいなのがやってるわけだからさ。とてもじゃないけど1日2日じゃ終わらない。だから、そういうやり方をやってはいましたよ。でも小川さんがいうように、スタジオに持って別なかたちで録音し直すってことは、ないです。

──では、一度に録った音をそのまま使うというのではなくて、何度かにわけて録った音を再構成するわけですね。

菊池:そう。

──これが初めて音構成した作品だったんですか。

菊池:そうだね。でも、あれは結構うまくいってると自分では思ってる、『1000年刻み』はね。いろいろな質感もあるし。技術的にも、仕上がったかたちとしては、いいように思うけどね。

──『1000年刻みの日時計』では1秒24コマではなく、コマ数を変えて撮っている場面もありますが、そのような撮影をすることに関して撮影部と録音部では何か打ち合わせがありましたか。

菊池:現場的にはね、撮影部と録音部がああしようこうしようということは、ないですよ。例えば、このシーンをこんなふうに撮りたいっていったときに、監督と撮影部が話をするじゃないですか。録音部はそこにはあまり介入しないし、そもそも監督と撮影部がどういうはなしをするのか。映画の経験が深かったのは小川さんと撮影の田村さんだったし……。

──じゃあ、まず監督と撮影部が話をして……

菊池:いや、僕は撮影部じゃないから。撮影部も含めた小川プロ一般のことは、いま語ることではないと思うんだよね。小川プロというのは、ひとつの存在として大きいから、僕からいろいろ聞きたいのかもしれないけど、さっきもいったように、僕はなんとなくふらっと入ってきてしまって、ふらっと録音の仕事をやらされて、ということだから。録音の仕事に意識的にというのはほんと、ごく最近ですからね。それをずっと遡って、小川プロで打ち合わせがどうだったかとか、小川さんとのどんな話の結果そうなったか、なんて聞かれても、あんまり期待されるほどのことはいえないですよ。

──それではむしろ、フィクション映画で録音の仕事を現在されている中で、小川プロ時代に受け取ったこと、経験したことがどのように生きているか、とお聞きしたいのですが。

菊池:なるべく答えるようにしますけれど、それもねえ、自分の中ではよくわからないです。こないだ若い人が来て、菊池さんの音は小川プロとの関係があったからとか、ドキュメンタリーをやってたからこうなんだって意味をつけようとするんだよね。でも、そうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。そういうひとつのことで人の考え方はそんなに大きくは支配されないと思うんです。たしかに、あると思うんだけどね。だけど、いまの音のありようが、全部ドキュメンタリーをやっていた「から」だと規定されるのはちょっと違うんじゃないかなと思う。

小川プロの話をするのがいやだっていうことではないんだけれど、そこからすべて説明されるのは違うだろうと思う。ただ、むこうでやって、いろんなことを勉強したとは思いますよ。まあ山形だけで10年いましたからね。編集だって1年かけてやって、オレもずっとそこに付き合ってたわけだし。春にね、春の場面の編集をしてたんですよね。そして夏になったら夏の場面の編集をしてたんですよ。計算してそうなったわけじゃないんだけど。偶然そうなったの(笑)。こっちも暇だから、音が足りないなと思うと、録りにいけるわけですよ。

──いいですね。

菊池:非常にね。で、音の編集が終わって気付いたのは、なにも音録りしなくても、8年くらい前に同じの録ってたんじゃないかって(笑)。そんなふうに毎日毎日、外の春の音だとか、田んぼの中に聞こえる音だとか、村の音だとか、あんなに時間かけてやったことはないし、それはそれでひとつ、勉強になった気はしますけどもね。

──あがってきた画に対して、後から音を録ってつけ足して行くというのは、現在の映画製作のペースからいって、なかなかないことですよね。

菊池:ないよ。春のシーンを編集するったって、フィルムの量も量だし[14]、そんなに早い方じゃないからね、あの人(小川)は。春が終わるまで春の場面の撮影やってるわけだから。だから、外に行って、3日も4日も音を録ってこられるなんて、幸せな時間だったよね。



<>2.劇映画での再出発 ……もうメチャクチャに戸惑いっぱなしでした……

──小川プロの後に、劇映画に関わられるようになるんですけれど、その経緯を教えていただけますか。

菊池:すごく格好悪くて、情けない話なんだけど(笑)、小川プロを終わったとき、10年間で作品は2本[15]しかやってないし、田植えやったり稲刈りやったりする合間に映画を撮ってるような状況だから、技術的にはなんの蓄積もないのよね。で、録音の仕事をやっていくのであれば、どこかでちゃんとした訓練を受けないとだめだろうなって考えたし、それと、これ以上いてもしょうがないというか、作品的にも小川さんはだいたいやりたいことをやり終えたようなところもあったし、だから『1000年刻み』が終わったときに、僕は小川プロを離れたんですよね。離れたけれど、次に何をやっていいかわからないし、とりあえず、なにか音のことをやったらお金になるんじゃないかと思って始まったんだけどね。でも劇映画ではやっぱり大変でしたよ。

──フィルモグラフィーを見ると、次の作品はKSSの『ナニワ金融伝』になりますが。

菊池:ああ(笑)。やりましたね。ちょうどバブルの絶頂期だったから、録音部ではとにかく人が足りなかったのね。で、技術云々よりもとにかく人手をって状況だったから、そのおかげで現場の数が踏めたってこともありました。それが2年か3年間。で、その後バブルがはじけて、いろんな仕事がなくなってきてね。仕上げの仕事もやりたいなと思っていたから、自主映画の仕上げの仕事を手伝ったり。

──『ナニワ金融伝』のとき、録音はひとりだったんですか。

菊池:ちゃんとした劇映画ですから。ひとりでできるような仕事じゃないです。

──小川プロ時代はひとりですよね。

菊池:うん。ひとり。

──その違いに戸惑うことはありませんでしたか。

菊池:いやあ、もうメチャクチャに戸惑いっぱなしでしたね。最初は20代の人の下について、1年半ぐらいやってたのかなあ……。ちょうどタイミングもよかったんです。その人が、助手ひとりでもやっていける、という意気込みの人だったからね。だから僕をチーフみたいなかたちにして、現場もひとりでやっていけ、ということになった。それで、現場を見ながらいろんなことを覚えつつ何作品かやった。

──劇映画の場合、小川プロ時代のやり方とは切り替えて考えていらしたんですか。

菊池:だって、やってることが全然違うじゃない。それまではカメラの横でただマイクを出しとけばいいようなものが、劇映画になれば、無数のライトがあって、役者が演技してるわけだからね。切り替えるもなにも、全然別なことをやってるわけですから。

──それでもやはり僕らが小川プロといってしまうのは、青山監督が田村正毅さんに映像を、それから菊池さんに録音をまかせて、つまり小川プロ時代の最後のスタッフ編成を継承して、その中で「現場主義」のようなものを蘇らせたという見方もあるからなんですが、それについてはどう思われますか。

菊池:単なる偶然じゃないかなあ。青山さんだって、小川プロの人間だから仕事しようってことじゃなくて、田村さんの映像を見て仕事をしてるだけだし、それに田村さんは小川プロだけじゃなくて、柳町さん[16]や多くの監督とのカメラもあるしね。田村さんと小川プロの関係については、田村さんに聞いたらいいですよ。僕にじゃなくてね。僕が小川プロをやめてから、田村さんとは10年ぐらい一緒に仕事してなかったですからね。久しぶりに一緒にした仕事は『楽園』で、そんときはもう雲上の人だったから、田村さんと現場でどんな口を聞いていいのか(笑)。夜はよく飲んだけど、現場ではそんときあんまり話をしてなくて、現場のスタッフが、「田村さんと菊池さんって、仲悪いんすか」、とかいってたね(笑)。小川プロに僕がいたから、その経歴に何か意味があるだろうと普通は思うかもしれないですね。だからこの経歴も、ほんとうは外したくて、今度の『エリエリ・レマ・サバクタニ』のパンフでも外してもらいました。人はそういうところに何か納得できるようなものを見つけないと落ち着かないんだよね。小川プロなんてのもそうで、勝手にラインができちゃうけど、でもそのラインについて話したところで、聞かなきゃよかったみたいな話にしかならない(笑)。



vol.1 vol.2 vol.3



脚注(元の箇所に戻るときはブラウザの「戻る」かBackspaceキーを使ってください)

1.大津幸四郎
映画キャメラマン。小川紳介とは岩波映画製作所でお互い助手時代に出会う。1963年岩波映画製作所退社後はフリーランスのキャメラマンとなる。
『圧殺の森』、『日本解放戦線・三里塚の夏』の他、『パルチザン前史』、『水俣—患者さんとその世界』、『水俣一揆—一生を問う人々』、『不知火海』、『医学としての水俣病(三部作)』といった土本典昭監督作品や『まひるのほし』、『エドワード・サイード OUT OF PLACE』、『出張』など多数の作品に参加している。

2.清水良雄
小川プロ参加後、映画キャメラマンとなる。主な作品に『水俣の甘夏』、『海盗りー下北半島・浜関根』、『水俣病 その30年』、『絵の中のぼくの村:Village of Dreams』など。

3.栗林豊彦
小川プロ参加後、録音技師となる。主な作品に『さよならCP』、『ゆきゆきて、神軍』、『全身小説家』、『おかえり』など。他、小川プロスタッフの流動的・横断的な例としては、三里塚の少年行動隊であった瓜生敏彦が小川プロのスタッフとして加わった後に映画キャメラマンとなったことも挙げられる。主な作品として『神田川淫乱戦争』、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』、『忘れられた子供たち』など。

4.『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』
以下、関連する小川紳介の発言。「『圧殺の森』のときは、本当に同時録音で撮りたかったんです。で、当時、同時録音システムがあることはわかっていたわけですけれども、お金がなくてどうにもならなかった。それで、あれはソニーのTC800っていう、五万円か六万円くらいで売っている録音機と、アリフレックスの普通の16、いまだったら六十五万くらいで買える機材で撮ったわけです。」(小川紳介著、山根貞男編『映画を穫る』筑摩書房、1993年、133頁)

5.「キャメラノイズが入ったり、長回しができなかったり(…)」
以下、関連する大津幸四郎の発言。「『圧殺の森』は、まだわりあいに短いカットが多いほうですが、それは当時、キャメラにフィルムを詰めるとき、一回三分間分ぐらいしか入らないからなんですね。そういうキャメラしかわれわれの手には入らないわけです。」(大津幸四郎の発言、『小川紳介を語る あるドキュメンタリー監督の軌跡』p.33)。「この作品(『圧殺の森』)について言えば、残念ながらシンクロキャメラは使っていないんです。(略)ですから、映画を見られた方はわかると思うんですけど、キャメラノイズもかなり入ってますし、音質の優れた録音機・マイクも使えないということもあって、音としての質もそんなに良くないわけです。」(映画新聞編『小川紳介を語る:あるドキュメンタリー監督の軌跡』映画新聞、1992年、35〜36頁)

6.ボリュー
フランスのボリュー社製の16mmキャメラ
以下、関連する福田克彦の発言。「“時間”というテーマを考えだしてから、同時録音への機材的な欲望が当然のようにおきてくる。私の日記では69年11月22日ボリューNo.2とあるから、69年の初秋には最初のボリューを手に入れていたのだと思う。ボリューとEM-2(録音機の名)、私たちスタッフはカメラノイズの大きいこの機材を神様のように思い、果敢にも同時録音の世界へ挑戦していく。」(『日本ドキュメンタリー映画の格闘 [70年代]』山形国際ドキュメンタリー映画祭‘95パンフレット、7頁)

7.エクレール
フランスのエクレール社製の16mmキャメラ。エクレール16NPRはノイズレス、ポータブル、レフレックスなどの特徴があった。
以下、関連する田村正毅の発言。「『第二砦』ではリップ・シンクロにこだわるというより、周りのワーッという歓声やヘリコプターの音なんかに注意した。そのあと中古のエクレールというキャメラを手に入れて、今度は四百フィートのフィルムが入るし、シンクロ用のキャメラだったからね。それで『三里塚・岩山に鉄塔が出来た』(72年)から、『辺田部落』まで撮った。」(『映画新聞』第三十五号、1987年6月1日)

8.ナグラ
スイスのナグラ社製の小型の同時録音用テープレコーダー。エクレールとナグラを組み合わせて同時録音のシステムが完成。1960年代のアメリカにおけるダイレクト・シネマ、フランスにおけるシネマ・ヴェリテという新しいドキュメンタリー運動を生み出す技術的成果となった。

9.「シンクロで長回しにも対応できるようになり(…)」
以下、関連する小川紳介の発言。「〜同期ということに僕がこだわったのは、そこにある対象、撮らしてもらっている人に対する最初の想いですよね。(略)できるだけ同期で、そのときの感じ、雰囲気みたいなものを逃さないで、全部撮ってくる。それから、画もできるだけ変にカットしないで、ある人を撮るんなら、できる限りその人を自分の見た目の位置で、変にハイボジションをとったりなんかしないで、そのままの感じで撮る。そういう形のいわば「聞き書き」でいいじゃないかというつもりで記録映画を撮ってます」(小川紳介著、山根貞男編『映画を穫る』筑摩書房、1993年、109頁)

10.「同期録音とは違うリアリティを求めてアフレコというか、例えば田んぼの泥をスタジオに持ってきて音を作ったとか?」
以下、関連する小川紳介の発言。「今回の『1000年刻みの日時計』ですごくおもしろかったのは、僕はこれまでずっと同期撮影をしているわけですけど、それを今度はかなり外しているわけです。よく音付けといいますが、スタジオで音を付けている。稲のシーンはほとんどそうです。『ニッポン国古屋敷村』のときには怖くてできなかった。あれは全部同期です。というのは、編集でわからなくなったときに、同期だとそのとき録った音だから言い訳ができるんですよ。こんなことはあまり監督はいわないものだろうけど、だって本当に録ったんだからということで、妙に安心する部分がある。僕はそれを編集台で二十年以上やってきて、もうそういうのがゴミのように溜まっている自分もどこかで疑っていた。そんなときに今回、ワンポイントマイクで同期で録った音を聞くと、絶対に田んぼで僕らが実際に聞いた音じゃないんです。マイクには指向性がある上に、録る角度が極端に限定される。レンズよりもシビアなものです。人間の目に近い標準サイズで撮れば、ある程度実際に近い形で出てきますよね。マイクもそういう標準マイクはあるけれども、音は全然違ってしまう。音のパースがなくなって、近くの音がボコーンと大きく入って遠くの音が消えるとか、いろいろなことが起こる。現実の耳というのは、労働しているときはさまざまなものを聞き分けているわけす。瞬間的に指向性を持って判断しているわけで。つまり自分のなかで働きながらも音をつくっているんです。そういう音がワンポイントマイクでは録れないことに気がついてきて、結果として録音の久保田幸雄さんと菊池(信之)君、田村君もいたけど、全部スタジオで音をつくったんですね。グチャとかベチャとか、遠くをバスが走ってく音も何もかも。全然リアルな音じゃないですが、おもしろいことに上山の部落や市民会館で二千人以上集まって上映会をやったときには、僕の映画のなかでいちばんリアルだっていわれました。」(小川紳介著、山根貞男編『映画を穫る』筑摩書房、1993年、166〜167頁)

11.久保田幸雄
録音技師。小川紳介とは岩波映画製作所で出会う。1964年岩波映画製作所退社後はフリーランスの録音技師として活躍。小川プロ作品の他、主な作品に『水俣—患者さんとその世界』、『祭りの準備』、『青春の殺人者』、『星空のマリオネット』、『嵐が丘』、『寝盗られ宗介』、『まひるのほし』など。
以下、関連する久保田幸雄の発言「(『1000年刻みの日時計』の)ダビング初日の最後は、春がきて田起こしをし、田に水を引いた後に田植えをするシーンである。この田植えをするスタッフの足元をキャメラが追っていく。そこには菊池さんが選び抜いた田んぼを滑る長靴の音が付いており、その上に富樫(雅彦)さんのドラムが流れる。この田植えの長靴の音と富樫ドラムがうまく噛み合っている。そして見事な音響のハーモニーを作り上げている。私はこの二つの音で作り上げられた世界を美しいと思った。うれしかった。」(久保田幸雄『聞こえてますか、映画の音』ワイズ出版、2002年、198頁)

12.プロツールズ
1991年からリリースされているデジタルオーディオプロダクションソフト。非圧縮かつリアルタイム編集を実現させ、現在も映画、放送、音楽制作の現場で広く使用されている。

13.6ミリ
この時使われていたのはオープンリールの録音機、ナグラⅢ型であり、テープ幅が6ミリであったため、通称6ミリと呼ばれていた。

14.「フィルムの量も量だし」
菊池氏自身の証言によれば、10年間で撮影したフィルムの量は、正確な数字は定かではないが、約30万フィート、あるいは50万フィートのどちらかであったらしく、ともかく昼夜ノンストップで映写機をまわしても1週間では終わらない長さだったことは確かだという。

15.「10年間で作品は2本」
『ニッポン国古屋敷村』(1982)と『1000年刻みの日時計』(1986)

16.柳町さん
柳町光男監督。田村正毅が参加した柳町作品には、『さらば愛しき大地』(1982)、『火まつり』(1985)などがあり、青山真治もそのカメラワークにおおいに注目していたとのこと。

19 Jul 2006
© Flowerwild.net All Rights Reserved.