糞まみれの貴族性──鈴木則文監督特集上映@金沢21世紀美術館レポート

角井 誠

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『トラック野郎』シリーズの菅原文太
 7月の15日から17日の連休に、金沢21世紀美術館で「鈴木則文 エンターテイメントの極意」と題された特集が開催された。『シルクハットの大親分』(1970)、『女番長ブルース 牝蜂の復讐』(1971)、『エロ将軍と二十一人の愛妾』(1972)、『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』(1973)、『まむしの兄弟 恐喝三億円』(1973)、『華麗なる追跡』(1975)、『トラック野郎 爆走一番星』(1975)、『ドカベン』(1977)、『多羅尾伴内』(1978)、『文学賞殺人事件 大いなる助走』(1989)といったいずれも傑作揃いの全10作品が上映され、客席には哄笑が炸裂し、涙に溢れかえった。

 それらの作品は決して思想や大義名分といった深層にはまり込むことなく、あくまで表層にとどまりながら、不条理な世界へと抵抗する人物たちの気高さを力強く描き出して見せる。それはまた、鈴木則文の「無思想無節操の職人監督」たるがゆえの明晰なる気高さのしるしでもある。今回上映された作品のなかには普段なかなか劇場で見ることのできない作品も含まれており、自作をビデオやDVDで見直さないようにしているという監督自身にとってさえも数10年ぶりの自作との再会となった──久々に対面したそれらの作品の「力強さ」を前にして、笑い、涙を流すその姿がとても印象的だった。今日の日本の「娯楽」映画にもっとも欠けているものは、もしかしたら則文的な明晰なる気高さなのかもしれない。今こそ、『徳川セックス禁止令 色情大名』(1972)のニュープリント化、そして鈴木則文監督特集上映が必要である。ここでは、来るべき特集上映に向けて、今回上映された作品を取り上げつつ、鈴木則文の世界を簡単に素描するにとどめたいと思う。

 鈴木則文の描き出す世界では、人物や物事の外見とその内実とは必ずしも一致することはない。一見真っ当な市民として通っている人物が、実は、骨の髄まで腐ったような憎むべき人間であるかと思えば、ときに醜くさえある、虐げられた貧しき者たちが真に高貴であったりもするのである。一体、鈴木則文の世界はどのように出来上がっているのだろうか? 『トラック野郎 爆走一番星』で田中邦衛扮するダンプの運転手、ボルサリーノが叫ぶように、世界は、「貧乏人と金持ち」から成っているというだけではまだ充分ではない。もしそれだけならば、互いに「貧乏人」同士であるボルサリーノと、松下金造(愛川欽也)、そして一番星桃次郎(菅原文太)らのトラック野郎たちが対立し、憎しみあうことにはならないはずだ。肝心な点は、世界は、彼ら「貧乏人」のためでなく、「金持ち」たちの都合のいいように出来上がっているということだ。『シルクハットの大親分』の軍人たち、『華麗なる追跡』での元看守や政治家、『多羅尾伴内』の野球選手、アイドル、医者のように、もっとも腐敗した人間たちが、真っ当な「市民」としての仮面をつけて世間でのさばっている。まがいものが、権力のお墨付きを得て流通しているのだ。それゆえ、鈴木則文の世界において外見と内実とは一致しなくなる。そして、「貧乏人」たちはというと、金持ちが「市民」を演じる偽善的な舞台を前にして、指をくわえて眺める観客にとどまるか、あるいは端役を割り振られるのがせいぜいのところだ。そして、与えられた端役にがむしゃらにしがみ付くなかで、「金持ち」たちの世界を維持するのに加担してしまい、その腐敗した裏面に無自覚にされてしまうこともあるだろう──それは、「金持ち」が「貧乏人」に与える擬餌なのだ。そこから、鈴木則文映画にしばしば登場する警察官の両義性が生まれる。彼らは、一方で、権力の犬として「金持ち」の秩序を維持するための端役のひとつであるが、他方では、その端役に必死にしがみ付くことでしか生きる術のない「貧乏人」でもあるのだ。「市民の安全」を守るというその大義は、結果として、「金持ち」と「貧乏人」との衝突を隠蔽してしまうことになる。それこそが、かつては「花巻の鬼代官」と恐れられた交通巡査で、今はトラック野郎の「やもめのジョナサン」となった松下金造という人物が表現するものなのだ──互いに「貧乏人」出身なのに一方はトラック野郎となったボルサリーノ、他方は警察官となった金造との対立と誤解はそこから生まれている。そして、それはまた、交通巡査として登場し、免職させられる赤塚周平(なべおさみ)が表していることでもある。『トラック野郎 爆走一番星』において感動的なのは、本来ならば対立するはずはないのに、「金持ち」たちの論理のなかで対立させられてしまっている彼ら「貧乏人」たちが、さまざまな誤解や対立を乗り越えて互いに団結する瞬間なのだ。一番星は、免職された赤塚を、警察署に迎えに来る。待ち構えていたトラックの電飾が点り、闇の中から浮かび上がる。赤塚を無理にトラックに押し込んだ一番星は、「お前には桜の代紋は似合わない」と名台詞を吐く。そして映画後半、一番星は、大晦日の夜に、出稼ぎ労働者の松吉を博多に住む子供たちのもとへ送り届けようとトラックを爆走させる。そして、スピード違反のトラックは当然、白バイ、そしてパトカーに追跡されることになる。パトカーは撒いても撒いても、次から次に、しかもどんどん増殖して現われる。何としても「大事な荷物」である松吉を届けねばならない一番星は、無線を通じて救援を求める。その無線の声を聞いたボルサリーノは、作業を中断して一番星のもとへと駆けつける。感謝の言葉を繰り返す一番星に、ボルサリーノは相変わらずのそっけなさで「浪花節は嫌いだって言っただろう」と返す。それら和解と団結のシーンは涙なくして見ることは出来ないだろう。「金持ち」の輩ではなく、ほとんど糞まみれなまでに汚らしい者たちのなかにこそ、精神の貴族性とも呼ぶべき高貴さが宿っているのだ。実際ここでは、一番星の「おなかの緩さ」が説話上も機能しているし、瑛子の運転するバキュームカーから糞尿が撒き散らされて文字通りすべてが糞まみれになりさえするのだ(『まむしの兄弟』でも観光旅行中のお婆さんたちが土手に並んで一斉に小便をする)。

 鈴木則文の映画が描き出すのは、このように虐げられた者たちが表面的な対立を超えて団結し、さらには「金持ち」への抵抗を試みるさまである──そして、その抵抗は、思想や大義名分などとは無関係な「私怨」ゆえの復讐として描き出されるだろう。『華麗なる追跡』の志穂美悦子はいわれなき罪を着せられて獄中死した父親の復讐を試みる。『エロ将軍と二十一人の愛妾』の池玲子もまた、一揆の首謀者として処罰された父親の恨みを晴らすために「ねずみ小僧」として幕府への復讐を試みる。『不良姐御伝』の猪の鹿お蝶もまた、幼い頃彼女の眼前で殺害された警視庁刑事の父親の復讐を試みる。『多羅尾伴内』においても、愛する夫と息子とを無残にも轢き殺され、なおかつその事件を金の力でもみ消された妻は、車を運転していた医者の息子、同情していた野球選手とアイドルらへと復讐を試みるだろう──アイドル歌手がステージの上で宙吊りにされて胴体から真っ二つになるシーンは圧巻だ。『文学賞殺人事件』においては、必死の裏工作にもかかわらず直本賞に落選した作家(佐藤浩市)が、選考委員たちを次々に虐殺してゆく。裏工作と落選の過程を題材にした小説「大いなる助走」の掲載をしぶる編集者を前にして、佐藤浩市は「私怨でない文学などない」と吐き捨てる。鈴木則文の映画は、こうした虐げられた者たちの「私怨」を強力な原動力としながら突き進んでゆく。

 しかしながら、彼の映画は、それが悲劇的な主題を掲げているにしても、陰惨さや深刻さとは無縁である。それは、陽気な悲劇なのだ。さまざまな「私怨」の復讐は、金持ちたちの論理をほとんど荒唐無稽なまでにパロディ化して転倒させることで成就される。そのとき、則文的登場人物たちが、復讐の手段として選ぶのは変装なのである。抵抗や復讐は、思想や大義名分といった深層にはまり込むことなく、目くるめく変装という表層の戯れのなかで闘われるのだ。先に述べたように、彼の描く世界では、腐敗した「金持ち」たちこそが、真っ当な「市民」に変装して生きている──変装とはそもそも「金持ち」たちの論理なのだ。復讐は、この論理を逆手に取ることで遂行されるのである。それゆえにこそ、変装というのは諸刃の剣である。中途半端な変装ならば、瞬く間に敵の逆手を取られてしまうことになるだろう。『多羅尾伴内』において、夫と息子を轢き殺され、事件をもみ消された妻は復讐にむかう。そのとき、彼女は「アイヌの仮面」を被る。しかしながら、そこには、同じ仮面さえあれば誰でも彼女に変装出来るという欠点があるため、いつのまにか敵である病院長に裏を掻かれてしまうことになるだろう。病院長は、同乗者の野球選手とアイドルが殺された時点で、逆に、残る唯一の事件目撃者たる復讐者を殺害しようとするのだ。「金持ち」たちの裏を掻いて生き延びるためには、むしろ、彼らの論理を徹底的に模倣し、荒唐無稽なパロディにまで至らせなければならないのだ。それゆえに、探偵多羅尾伴内は、ときに「流しの歌い手」、「白バイ警官」──警官の両義性は先に述べたとおりだ──、「手品好きの気障な紳士」、「怪人せむし男」など7つの顔を使い分けて、華麗な「変装」を披露するのだ。それらの露出狂的なまでの変装が、かえって彼を周囲から浮かび上がらせるとしてもそれは欠陥ではない。まさにその過剰さこそが、金持ちにとっての盲点となるのだ。『華麗なる追跡』での志穂美悦子もまた、多羅尾伴内と同じように、華麗なる変装を披露する。彼女の復讐の相手となるのは、元看守、元刑務署長、さらには大物政治家といった、いかにも真っ当な「市民」のツラを被っている(あるいは、いた)人物たちだ。志保美悦子は、「ギャンブラー」、「小柄な紳士」、「お茶くみの老婆」、「シスター」、「せむし女」など華麗な七変化繰り広げながら、敵の核心へと迫ってゆく。その変装はときに敵側の裏を掻ききれていないが、それすらここでは問題ではない。周囲に紛れるというよりも、むしろ過剰な演技を浮かび上がらせてしまうなかで、金持ちたちの仮装の論理そのものをパロディ化しているのだ。両者がなぜか最後に、醜悪な「せむし」に変装することにも注目しよう──それは、彼や彼女ら虐げられたものたちの汚辱そのものをあからさまに可視化するかのようだ。そして、精神の貴族性は、まがいものたちがのさばる世界を哄笑するかのようにパロディ化しつつ滑走してゆく彼の明晰さのなかにこそ宿っているのである。

 『エロ将軍と二十一人の愛妾』においてもまた、池玲子扮するお吉の復讐は、変装を通じて行われる。「ねずみ小僧」である彼女自身がさまざまな変装を繰り広げるばかりではなく、農民出身で好色の角助と将軍の世継ぎである豊千代(ともに林真一郎)との外見がそっくりであることを利用して、角助を豊千代に変装させて、11代将軍家斉の「代役」として江戸城に送り込むのだ。こうして、彼女は幕府の撹乱を目論むことになる。角助は、その異常なまでの性欲によって、次々と大奥の女たちに手を出してゆく。皇族出身の正妻をさえ妊娠させて、将軍家の血に皇族の高貴な血を注ぎいれようとする幕府の戦略まで骨抜きにしてしまうのだ。さらに、田舎芝居の花形であった角助は、将軍になりきってしまいお吉の予想を超えた働きをする。宦官の実施や、田沼意次の妻子を陵辱するのを皮切りに、なんと一揆の首謀者など政治犯まで含む囚人たちを大奥のなかへと侵入させて恐るべき乱交状態を作りだしてしまうのだ──ここでも性のアナーキーな力が幕府の秩序を転覆させることになる。しかし、角助は、そうした必死の演技、同一化の果てに疲弊しきってしまう。葵の紋に切りかかるシーンが示すように、彼は将軍であることと貧しき三助であることのあいだで、つまり自分自身と役柄とのあいだで悲痛に引き裂かれてしまうのだ。そのとき、お吉は彼があくまで「偉大な将軍」であることを思い出させ、その引き裂かれた傷を縫い合わせようとする。角助はお吉と目くるめく愛を交わすなかで、将軍として息を引き取るだろう。角助のように演じるべき役柄との距離を見失ってしまった者も、中途半端な演技者と同様に悲痛な最期を遂げることになる。だが、必死に演技する彼もまた、気高い存在なのである。そして、あくまで明晰に、演じるべき役柄を演じきった者が生き残る。お吉は幕府の千両箱を手にして、復讐を全うするのである。ここでもまた、精神の貴族性は、幕府の側ではなく、角助の、そしてお吉の側にある。

 鈴木則文の映画は、虐げられた貧しき者、醜き者たちのなかにある気高さを描き出す。「金持ち」の論理の裏を掻き、それをほとんどパロディ化してしまう彼らは、偽善的な「金持ち」たちなどとは比べようもなく、気高く高貴である。この世界において、真の貴族性は、ほとんど糞まみれの貧しき者たちの側にあるのだ。『シルクハットの大親分』のラスト、若山富三郎扮する熊虎親分は、藤純子演じるお竜と並んで、自分たちが「日本一の美男美女」だと言ってみせる。その台詞は冗談などではなく、まさに彼らの精神の美しさを表す見事な台詞ではないだろうか。鈴木則文の映画は、そうした「美男美女」を描く映画なのだ。些か穿った見方をするならば、こうした気高さは、鈴木則文の映画そのものにも当てはまるのではないだろうか。「無思想無節操の職人監督」とも言われる鈴木則文の映画は、大義名分を掲げて深層に陥ることなく表層にとどまるその身振りにおいて、限りなく明晰であり、それゆえにこそ気高いのだ。今日の日本映画にとってますます稀になってゆくのは、こうした娯楽監督としての明晰な気高さなのではないだろうか。それゆえ、今こそ、『徳川セックス禁止令』をはじめとした諸作のニュープリントを用意し、鈴木則文の作品の上映を組織することで、その明晰なる気高さを発見しなくてはならない。

17 Jul 2006

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