ある不敵さのために──D・クローネンバーグ『ヒストリー・オブ・バイオレンス』

石橋今日美

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 けだるく不穏な虫の声が響く中、キャメラは車でモーテルを出発しようとする、ふたりの男たちを親密に追い続ける。視界から奥行きを奪い、見る者のまなざしをキャメラの滑らかな横運動に追従させる、さびれたファサード。この文字通りの作品世界の表層が打ち破られ、われわれがフィクションの中心へと召喚されるのは、若い男が再び建物の内部に入るときだ。壁の血痕、床の死体。生々しい殺戮の痕跡に一瞥もくれず、飲料水を補給する青年は、トイレに身を潜めていたブルネットの少女に姿を見られる。恐怖に凍りついた瞳に向けられる銃口のアップは不意に、ブロンドの女の子のショットへと切り替わり、発砲音と幼い悲鳴が響き合う。あたかも一連の出来事が、ベッドの上の彼女、ストール家の長女サラが見た悪夢と直接つながっているかのように。枕元に駆けつけた家族に「モンスターを見たの」とサラ。そんなものはいない、となだめる父親トム(ヴィゴ・モーテンセン)。娘は最後まで知ることはないが、彼こそ、アメリカの田舎町でささやかな幸福を享受する一家を破滅に導く「モンスター」だと言うべきなのか。

 経営するダイナーに押し入った強盗から人々を守り、一夜にして「アメリカン・ヒーロー」になったトム。善良な市民・家庭人たる彼のもうひとつの貌が明らかになってゆく、デイヴィッド・クローネンバーグ監督『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005)は、シネアストになじみ深いモチーフと同時に、新たな局面を示す。上述の冒頭は、すでに示唆的と言えるだろう。フィルムの「外面」(モーテルの壁)と「内部」、そこで生起する外観からは予測不可能な出来事。作品世界の時空間の断絶においてバイオレンスが生み出す、対照的な外見と運命を持つふたりの少女の交錯。ここで、本作同様、主人公のアイデンティティーが問われる『スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする』(2002)、とりわけ、心療施設を出たデニス(レイフ・ファインズ)が、彼を現実世界から冷たく遮断するような、陰気な外壁が続くロンドンのイーストエンドの通りを抜け、窓にかかったレースのカーテンをそっと開けて、フィクションの温かな「深奥」、幼いスパイダーの家に初めて足を踏み入れる場面が想起されるかもしれない。新作と既存の作品の間に関連性を見出そうとするのは、批評家の仕事であり、監督は両者の関係を考えて映画を撮ることはない、とクローネンバーグ自身が、しばしばシニカルに語るように、30年に渡る多彩なフィルモグラフィーを単純に図式化することはできない。だが少なくとも、以下のことは指摘できるだろう。互いに異質で、本来交わることのないXとYが遭遇するアクシデント、ふたつが不可逆的にひとつになること(または、ふたつがひとつになれない悲劇)。そこに至るまでの弁証法的過程、矛盾と混乱に満ちたダイナミスム。XYの弁証法的運動は、クローネンバーグの作品群のひとつの主軸となっている。さらに、死においてしか究極の一心同体を達成できない『戦慄の絆』(1988)の一卵性双生児の産婦人科医が、「体内の美人コンテストをやりたい…各部に美の基準を決めたい。内も外もね」と患者に言う台詞は、シネアストの関心のあり方と無縁ではない。というのも、クローネンバーグ作品において、物事の目に見える外観・表層と、その内に宿るものとの関係を映像によって描き出す試み、その関係自体が作品展開のモーターになることは珍しくないからだ。

 言うまでもなく、『ザ・フライ』(1986)では、テレポーテーションの実験装置に紛れ込んでいたハエと科学者ブランドルが、遺伝子レベルで単一の生命体に解体・再生され、体毛や体液といった外見だけでなく、性・食などの精神面においても、人間と昆虫の区別がつかなくなる状態が克明に描写される。そして、蠅男の外見に対する「人間らしい」内面の抵抗(恋人とお腹の子供とひとつになりたいという欲望)は、最終的に主人公を死に至らしめる。肉体は現在を生きながら、そこに属さない過去や未来のヴィジョンに支配される主体(『デッドゾーン』[1983])、性同一性の揺らぎと東洋/西洋の融合の不可能性(『Mバタフライ』[1993])、高度な情報化・産業社会におけるメカニックなものとセクシュアリティーの「衝突事故」(『クラッシュ』[1996])、もはや機械と肉体の画一的な境界が消滅した時代のリアル/ヴァーチャルの有機的結合(『イグジステンズ』[1999])。もっとも明快な例である『ザ・フライ』を筆頭に、XとYの紋切り型の二項対立が崩されるプロセスに、内なる感情の問題、男女関係のプロットが結びつけられている点も見過ごせないだろう。

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 では、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は、こうした問題系をいかに継承しているのか?作品は一見、「善」トム/「悪」ジョーイの人物造型に基づいて進行しているかのように見える。だが、主人公は「ふたつの外見とふたつの性格」を持つMr.ジキル/ハイドではない。弁証法的進化はキャラクターではなく、描かれる事象全体に関わり、その意味で本作はそれ自体がひとつのマシーンのように構成された、極めて組織的なフィルムになっている。ダイナーでのトムの銃による正当防衛とジョーイの名を口にする男たちの出現を境に、さまざまな出来事は、いわばトムの日常である「before」とジョーイの影に脅かされる「after」に区分される。学校で同級生のいじめを大人しく甘受していた息子は、別人のように相手に暴力的な報復を下す。客で大賑わいだったダイナーのカウンターで、トムはひとり肘をつく。負傷した夫と誇らしげな妻エディ(マリア・ベロ)が対面する病室、家族の笑顔があふれ、父親が英雄的帰還を果たす家は、後半、衝撃的な告白の舞台と、誰ひとり迎えてくれる者のいない、沈黙に包まれた空間へと変貌する。圧巻は、トムとエディのラブ・シーンだろう。共有できなかった高校時代を取り戻すという口実で、エディはチア・ガール姿で夫を誘惑し、ふたりは子供用ベッドの上で優しく愛撫し合う。心地よい疲れにまどろみながら、恋に落ちた瞬間を覚えていると妻の耳元に甘く囁く夫。その同一人物が、階段を逃げるように上がろうとするエディを捕まえ、抵抗する彼女を組み伏せて、乱暴に体を重ねる。ヒッチコックより沈痛かつ致命的に、ここでの愛の行為は、まさに殺人と同じアングル、モンタージュのリズムによって提示される。死体が無惨に潰された顔面を晒すなら、エディはアザが痛々しい背中をこちらに向けて涙を流す。最高の性的興奮を与えてくれた男は、彼女の知っている夫ではない。

 本作において、凶悪なジョーイは、蠅男のように主人公の外観のバリエーションとして視覚化されることはなく(殺人の場面で俳優の演技のレベルで、まなざしや表情などが微妙に変化するとしても)、人格の潜在性として作品世界に伝染し、アクションの様相を変えてゆく。それによって、真のサスペンスが構築され、その効果が増幅される。サラを連れて、ショッピングセンターに買い物に行ったエディは、一家につきまとうフォガティ(エド・ハリス)と対峙する。夫はあなたなど知らない、と主張するエディに、フォガティは、つぶれた目で見えるのはジョーイ・キューザックだけであり、彼はずっと「crazy fucking Joey」なのだ、と言い放つ。自分が知っているのは、夫がトム・ストールであることだけ、と頑として言い返すエディ。彼女をはじめ、息子や保安官サムが「知っている」トムが、いつジョーイに「見える」のか?対照的な一連の出来事の発生は、サスペンスの核をなすこの問いを、登場人物(凄惨な場面を見ること自体を禁じられるサラを除く)だけでなく、見る者にも繰り返し突きつける。一度は消滅したと思われたもの(ジョーイの人格)の回帰、いつ回帰するのか、という問題は、それ自体宙づりの恐怖を生み出す。さらにここでは、トムの過去が詳細に明かされないため、観客を含め登場人物たちは、「それ」がどこから来るのかを知らない。ジョーイがトムの中に見えてくるとき、それは起源なきものが回帰する恐ろしさに、われわれが感染するときなのだ。そして、「見える」ことと「知っている」ことは、本作のサスペンスだけでなく、クローネンバーグの映画のヴィジョン自体に関わる根源的な要素ではなかったか。

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 「現実は、私たちのリアリティーの知覚の中にしか存在せず、その結果、私たちが知覚するものはすべて現実である、というオブリヴィオン教授の発言をそのまま受け入れることができます。その意味で、この作品には幻覚というものは皆無なのです。(…)私は、そうあるように望みました。なぜなら、私にとって、それが真実だからです」[*1]。『ヴィデオドローム』(1983)に寄せたクローネンバーグの言葉に表明される、現実をめぐる概念は、あからさまにグロテスクな事物がなりを潜める近年の作品において、ますます明晰に実践されているように思える。最も大胆な例は、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と「特殊な観客向けの二本立てにすると、面白いだろう」[*2]と語る 『スパイダー』だ。この作品では、特殊効果や、独白、フラッシュバックといった映画の語りの制度的手法に訴えることなく、大人のスパイダーに少年自体の自分が見える・見えないという違い、画面内の俳優の物理的存在のみに従って、過去と現在が鮮やかに錯綜する(ミランダ・リチャードソンが複数の女性に見える、という重層性も加わる)。複雑なプログラムに依拠しているように見える『イグジステンズ』の仮想現実ゲームの場面展開も、テッド(ジュード・ロウ)の視覚(と他の感覚)の対象の変化に導かれていた。先験的・常識的な「知っている」に基づく世界が、「見える」こと、見えてしまった何かによってあっけなく覆されること。人物の外見と内面の皮相な対立を超越した『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は、それぞれの登場人物にとって、「知っている」トムを中心に築き上げられた日常世界が、迷いや疑念を超えて、ジョーイが「見えた」という認識によって一変する恐怖を用意する。「モンスター」はトムに潜んでいたわけではない。知覚を通して、われわれが自身の中に呼び覚ますものなのだ。

 何かが見えてしまうことの不敵さをラディカルに探求し、独自の映画的現実を打ち立てるクローネンバーグは、「映像を信じる作家」ではなく「現実を信じる作家」だ。付言するなら、彼にとっての現実は、ひとつの基準から限定される絶対的なものではなく、主体の知覚によって、いつ、どのように変貌を遂げるか分からない、怪物的な相対性を秘めている。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のラストに、クローネンバーグ作品について回る、救いようがないまでの後味の悪さやダークな閉塞感が希薄なのは、本作が単に底なし沼的な現実の相対性を暴くだけでなく、その後の未来に向かって開かれようとしているからだろう。ジョーイに関連する人々を葬って帰宅した父親に、黙って夕食のプレートを用意するサラ。誰も口を開くことができない家族の食卓にはもちろん、楽観的な救済などない。だが、視線をそらしていたエディは、意を決して正面の夫を見つめ、夫も妻を見つめ返す。涙を浮かべた彼の顔には、名状しがたい強い感情が浮かぶ。エディの表情を映し出す切り返しの画面はない。けれども、彼らは新たに、何かを共にまなざすために、お互いをしっかりと見つめ合う。



脚注

*1.
L’Horreur intérieure : les films de David Cronenberg, dossier réuni par Piers Handling et Pierre Véronneau, trad., Alain N. Moffat et Pierre Véronneau, Paris, éd. Cerf, 1990, p. 34.

*2.
http://www.timessquare.com/movies/cronenberg/page3.html

『ヒストリー・オブ・バイオレンス』 A HISTORY OF VIOLENCE

監督:デイヴィッド・クローネンバーグ
脚本:ジョシュ・オルソン
撮影:ピーター・サシツキー
編集:ロナルド・サンダース
音楽:ハワード・ショア
キャスト:ヴィゴ・モーテンセン、マリア・ベロ、エド・ハリス、ウィリアム・ハート

2005年/アメリカ/96分

3月11日より、東劇ほか全国ロードショー
配給:ムービーアイ

09 Jul 2006

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