優柔不断男、薄氷を踏む──J・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』

三浦哲哉

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  「19歳になるあなたの息子がいます」と告げるピンクの手紙が届く。差出し人は不明。そしてビル・マーレイ扮する中年男、ドン・ジョンストンは手紙の主とおぼしき20年前の恋人を訪ねる旅に出る。以上がジム・ジャームッシュの6年ぶりの長編『ブロークン・フラワーズ』の冒頭である。伝説の女たらしのドン・ジョンソン(Don Johnson=ドン・ファン)と一字違いのドン・ジョンストン(Don Johnston)は、その名の通りのやり手であったらしく、当時の恋人もひとりではなかった。彼が順に再会することになる女性は全部で4人。そしてその誰もが可能性としては差出し人でありうる。この滑稽で不気味な状況が、ドンの旅路を甘いノスタルジーからも、独りよがりな和解の試みからも遠ざけるだろう。なにしろ決着をつけるべき過去が、そもそもひとつに定められないのだから。可能性として現にありうる物語、4人の女性のうち、誰のものでもありうる物語のあいだで、ドンは揺れ続けることになる。

 ここでもポイントは複数形の" s "にある。つまりかつての恋人たち、" Flowers "の" s "。アメリカ各地に散らばった女性たちとの会話劇を並べた本作は、これまでジャームッシュがてがけてきたエピソード集的作品とほぼ同様の構成をとる。例えば、メンフィスのある一夜、「同時」に起こる3つの物語を組み合わせた『ミステリー・トレイン』(1989)、世界の5つの都市で「同時」にタクシーを走らせる運転手たちの会話劇を並べた『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991)、そして『コーヒー&シガレッツ』(2004)。ただ『ブロークン・フラワーズ』がこれまでと異なるのは、「同時性」によってでもシチュエーションの相似によってでもなく、「可能性」によってシーン同士を併置した点にある。息子が存在していたことを告げる一通の手紙、たったそれだけで、複数の可能性がパラレルに立ち上がる。終わったはずの過去が、知らぬ間に芽を出し開花していたというわけであり、そのことによって「現在」もまた未決定の宙吊り状態を余儀なくされる。あの女との間にできていたかもしれない息子、この女との間に出来ていたかもしれない息子、そんな「可能的息子」たちが現在にせり出してきて、あげく、主人公の自同性までもが覚束なくなるのだ。こうして『ブロークン・フラワーズ』は、映画に本質的な偶然を導き入れる。

 主人公のドン・ジョンストンもこの複数的な構成と軌を一にするかのように、いつまでたっても可能性をひとつに絞ることをせず、ほとんど居直りのような優柔不断を決め込むだろう。犯人捜しの探偵旅行のように始まりはするものの、目的は必ずしも解答を見つけ出すことにはなく、むしろ宙吊り状態をできる限り維持することにあるかのような有様なのだ。とにかくこの映画の主人公には事態を解決しようという意志が希薄だ。そもそもがエチオピア訛りでミステリー好きの隣人ウィンストン氏が勝手に計画してしまった旅行ではある。カーステレオから流れるエチオピアン・ジャズも緊張感を削ぐだけで、任務遂行のモチベーションを高めるとはいいがたい。もちろんドン役を演じるビル・マーレイが、積極的な行動や男性的な決断などのおよそ似合わぬ俳優であるのは確かだし、近年確立したモラトリアム中年のイメージをここでもさらに徹底しているだけではあるのだが、しかし今回は家族の物語である。息子探しというシチュエーションを考えれば、このやる気のなさには唖然とするしかない。家族の絆がかかっているのだから、和解の瞬間が訪れるにせよ喪失を確認して終わるにせよ、結論を見るまで奮闘するのが筋というものだろう。責任を自覚し、翻って自分を家族の一員としてみとめることが、正しい家族物語の目標というものだ。ところがこの映画の主人公は「気乗りがしない」とぼやき続け、いつまでたっても息子はおろか母親を特定することもできない。とぼけた会話を続けながら、ただ差出し人の唯一の手掛かりだというピンクのオブジェを探す以上のことをしないのだ。手紙がピンクの封筒に入っていたからピンク色のオブジェの持ち主があやしいという、ただそれだけの発想なのだが、そんなものはどこにでもあるに決まっていて、結局、解決の糸口にはならない。むしろ、どこにでもあるがゆえに可能性は一向にせばめられない。「ピンク」探しは謎解きに関していえば完全に逆効果で、あらゆるものが疑わしくなり、謎が拡散していくばかりである。結果、再会する女たちの誰もがそれなりに母親らしく見えてしまう。そしてこのそわそわした未決定の状態がただひたすらに続くのである。

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 なぜ、この主人公は解決を望まないのだろうかと問うても仕方がない。なにしろ彼は一字違いであるとはいえやはり“ドン・ジョンソン”なのだ。ジャームッシュは当初、彼の名前をジョンソンそのままにする予定だったというが、あまりにばかばかしいと思い直して一字だけ変えたそうだ。ようするに彼の優柔不断は、その寓話的設定に由来する。ドン・ジョンソンが家族を構えたり息子と暮らすなどということは、定義上ありえない。だから彼が抱える未決定状態は、やがて解除されるべき仮初めの状態ではなく、むしろ本来の実存なのだと考えたほうがよさそうだ。そしてまた、ジャームッシュがつねに、家族を含めたあらゆる枠組みに属さぬアウトロー、あるいはドリフター(流れ者)を描こうとし続けてきたことにも思いを致すべきだろう。ドンもまた、処女長編の『パーマネント・ヴァケーション』(1980)のアリー少年以来、ジャームッシュが一貫して描き続けてきたアウトローたちの流れを汲む存在なのだ。

 ピンクの花束を片手に、ドンが女に向かって自分のことを「ドン・ジョンストンだ(I'm Don Johnston)」と名乗る場面にはなにか感動的なおかしさがある。女はしばらく男の顔を訝しげに見つめるのだが、やがて事態が呑み込めると、「まあ、ドン!」といって顔を明るく輝かせる。そしてつねに、ドンと女の間には男女間の初々しい緊張関係が生まれてしまう。20年ごしに再会したかつての恋人たちは、過去の想い出話に花を咲かせたり、ただ近況を報告したりするのではなく、あっさりと恋愛状態に戻ってしまうのだ。腐っても鯛というべきか、ドンの行くところ、つねに恋愛がついてまわる。ことは昔の恋人たち相手に限らない。男が「ドン・ジョンストンだ」と名乗ると、相手は笑って「ドン・ジョンソンなの?」と返し、すると「いやジョンストンだ、" t "が入る」という決まったやりとりになって、するともう相手の女はドンに思わせぶりな視線を投げかけ始めている。ローラ(シャロン・ストーン)の娘、"ロリータ"もそうだし、花屋の店員もそう。どうも女性はつねにドン・ジョンソンを求めているということらしい。もはや世代は関係なく、誰もがドンを目の前にするとなにか浮ついた気分にならざるをえないかのようである。ドンの20年前の恋人たちがいまだ「現役」であることは一目瞭然である。特にローラ役を演じるシャロン・ストーンの女性としての存在感にはさすがの一言しかない。整理整頓術のインストラクターとして生計をたてているとのことで、安手のけばけばしい洋服もまたよく似合っている。同居する娘を蚊帳の外におき、いつのまにやらドンと一夜を共にするのだが、まずこのローラが彼の旅路の後ろめたい性格をあっさりと払拭してしまう。次に登場する女性、ドーラ(フランセス・コンロイ)は、夫と不動産業を営んでいるが、いまだにドンを忘れることができないらしく、少女のような羞じらいを見せる。3人目、「アニマル・コミュニケーター」なる職業を営むカルメン(ジェシカ・ラング)は、ドンの来訪に心を動かすわけではないけれど、ここでは助手役のクロエ・セヴィニーが緊迫した三角関係を演出する。クロエはラングに恋愛感情を抱いているらしく、ドンが自分の恋路の邪魔者だということを直ちに見抜くのだった。この場面のみならず、ドンと女に加えて登場する「もうひとり」のキャラクターが実によく効いている。“ロリータ”、そしてドーラの夫もそうだが、彼らがいることで、いつのまにか奇妙な恋の三角関係が生まれてしまう。そして3人は、いわば「お見合い」状態を余儀なくされる。互いに腹のうちを知らないが、かといってずけずけと詮索することもできない。交わることのない会話が続き、ドンは(観客と共に)ただ想像を膨らませることしかできない。そして結局のところ、本作の核心にあるのがこの見つめ合うもの同士の緊張関係なのではないだろうか。つまり相手の顔を見つめ、沈黙を交換すること。本作が描くのは、家族ではなく恋愛である。そしてこの映画にとっての恋愛とは、なにかが起きそうでいてまだ起きていない状態、結婚や家族などといった定型に収まる以前のおぼろげな関係のことをさす。なにより、これがドン・ジョンソンの領分なのだ。決着は引き延ばされ、それゆえに強烈な喚起力が生まれ、面と向かった相手の謎めいた一挙手一投足が艶やかな色気を帯びる。俳優たちの演技に関して、本作では『コーヒー&シガレッツ』にあったような、気楽で自由な俳優たちの遊びは影を潜めているし、フォレスト・ウィテカーやトム・ウェイツのようないい意味で弛緩した身体感覚の持ち主も登場しない。ほかのジャームッシュ作品に比べてやや固いという印象を覚える瞬間が多々ある。しかしここでは、見つめ合い、言葉を詰まらせるときの、俳優たちのこわばりからこそ魅惑が生まれる。ドン・ジョンストンが消極的であればあるほど、女たちはいっそう謎を深め、魅力を増すのであり、それはそれで見事な設計というべきだろう。

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 だがドンにしてみれば、このような未決定状態に留まることが決して楽ではないのもまた事実だ。ジョンソンならぬジョンストンであるというこの一字の違いがやがて重くのしかかってくる。劇中に挿入されるドン・ファン映画の場合とは異なり、生身のドンはやはり疲弊していくしかない。「もうこんなくだらないことはやめて帰ろうか」と何度も迷いつつもふらふらと訪問を繰り返し、やがて4人目の女性ペニー(ティルダ・スウィントン)の家を訪ねたとき、ついに手痛いしっぺ返しをもらう。ジャームッシュのフィルモグラフィーでおそらくはじめて採用された主観カメラ(ドンの見た目ショット)に男の拳がゴツンと当たり、画面は暗転。アウトローが排斥されるのは世の常だが、それが男の敵、ドン・ジョンソンならばなおさらである。気ままに生きる代償というわけだ。そして旅路の果てでドンは雨の中にポツリと独り取り残される。終点にて、すでに亡き人となったミシェル・ペペの墓の前でのことである。ここでドンはさめざめと涙を流す。ペペとの間に特別深い想い出があったからかもしれないし、あるいは、喪失の念につかれてのことかもしれない。ただここで強調すべきことは、墓が可能性の潰える場所ではないということだ。むしろ、この5人目の女性がすでに死んでいるという事実によって、息子探しはいよいよ完全に暗礁に乗り上げる。つまり、もし仮に4人目までの女性が全員母親ではなかったとしても、可能性としてはミシェル・ペペが残される。もちろん、ペペが手紙を出すことはありえないし、だから隣人のウィンストン氏が犯人捜しの旅程に墓参りを組み入れたのは実は不自然なことではあるが、ともかく、もはや手紙の謎いかんに関わらず、完全に解答なしの現在を生きるしかないことをここでドンはしみじみと了解することになる。

 旅から戻ったドンは、なにやら我が息子らしき青年を見つけると自分から声をかけ、サンドイッチをおごってやり、そして自分の想いを吐露する。だがそんな独りよがりは当然ながら裏切られ、青年は気味悪がって逃げ出す。そこですかさず、入れ違いになって1台の自動車が通りがかる。先程の青年と全く同じジャージに身を包んだ別の青年が車窓から身を乗り出し、ドンを不気味に凝視する。「可能的息子」は、当然のことながら、何人でもやってくるだろう。ドンはいまや、誰ででもありうる息子が、自分をあらゆるところから見つめていることを知っている。彼の周囲を旋回するカメラがあからさまに示すように、世界は開かれたままだ。

『ブロークン・フラワーズ』 BROKEN FLOWERS

監督・脚本:ジム・ジャームッシュ
撮影:フレデリック・エルムズ
音楽:ムラトゥ・アスタトゥケ
編集:ジェイ・ラビノヴィッチ
出演:ビル・マーレイ、ジュリー・デルピー、ジェフリー・ライト、シャロン・ストーン、フランセス・コンロイ、ジェシカ・ラング、クロエ・セヴィニー、ティルダ・スウィントン

2005年/アメリカ/96分

4/29(土)より、シネマライズ、シャンテ シネ、新宿武蔵野館、シネ・リーブル池袋ほか全国一斉ロードショー

http://www.brokenflowers.jp/

04 Jul 2006
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