演技の恥について──アルノー・デプレシャン覚書

三浦哲哉

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『キングス&クイーン』(2004)の前年に発表された『"男たちと共に"演技するレオ』(2003)は、本編とそのリハーサル中の映像とを交互に編集した作品だが、潜在的には『二十歳の死』(1991)以来、すべてのデプレシャンの作品には、俳優たちがまさに"演技中"であるかのような印象があった。俳優たちがひとつの表情を成立させようとする過程、あるいは逆に成立させられないでいる状態自体に焦点が置かれ、結果、そのものとして定着された彼らの立ち居振る舞いの脆弱さが、再び物語に還流するかのような具合なのである。少女エスターが女優に変身するまでを綴った『エスター・カーン めざめの時』(2000)の主題も、もちろん演技である。演技の演技というわけだが、しかしこれはメタレベルの高みに立とうという知的な操作(例えば"パロディ")ではなく、むしろ演技の不安定さへと降りていく感覚的な操作であるように思われる。デプレシャンの作品で目を引くのは芝居の壊れやすさである。ジョン・カサヴェテスの『フェイシズ』(1968)のように、といったら語弊があるかもしれないが、ともかくデプレシャンの作品では常に"顔面のドキュメント"とでもいうべき側面が強調されてきた。そしてその限りで、観客としてスクリーン上の俳優と対峙したときに第一に覚えるのは、身の縮まるような恥ずかしさの念である。なぜなら、"演技中"であるがゆえに、彼らの顔はひどく無防備であるからだ。

 演劇の場合とは異なり、映画の俳優が演技を成立させる(あるいは成立させない)というとき、問題になるのは、与えられた状況に対して俳優が適切に振る舞えるかどうか、だけではない。与えられた俳優の映像に対して、監督が適切な状況をあてがうことができるか、もまた問題となる。具体的には、視線の構成いかんによって、同じ演技であっても、成立する場合もあればしない場合もある。単純化すれば、視線を正しく繋げることによって、芝居の「可笑しさ」は「可笑しさ」になるし(面白がっている相手役の映像と適切に繋げればよい)、芝居の「悲しさ」は「悲しさ」になる(共感している相手役と繋げばよい)。ワンショット・ワンシーンの場合は無論その限りではないけれど、視線がモンタージュされる場合、そこには一方の演技を「承認」する契機が含まれる。例えば、クリント・イーストウッドの自作自演作品で、彼の共演者がやすやすと演技を成立させることができるのは、俳優イーストウッドの視線が常に画竜点睛の機能を果たしているからである。彼のニュアンス豊かなリアクションによって、共演者の芝居は正当化され、肯定される(特に『トゥルー・クライム』[1999]は模範的な「承認」の映画である)。一方、デプレシャンの作品において、差し向かいになったふたりが視線によって互いを承認しあうようなストレートな構成は多くの場合、選択されない。俳優のある振る舞いが与えられたとして、これを正当化するリアクションが次に接合されるのではなく、むしろ、この振る舞いが"浮い"てしまい、そのズレが強調されるかのような、いびつな構成が故意に選ばれているかのようなのだ。例えば、エスター・カーンが少女時代に母親から自慰行為を目撃されるという場面をとりあげてみよう。トイレのドアを開けてエスターを盗み見るやいなや、母親はこれみよがしの罵詈雑言を娘に浴びせかける。だが次にこのふたりのやりとりは、そばにいたエスターの姉の視点から切り取られ、今度はこの母親の振る舞いが観察される。つまり、ここではエスターの姉を除いて、誰もが、見られることを想定しない行為を、冷ややかに盗み見られているわけだ。自慰行為の目撃という、いかにも恥ずべき状況が設定されているわけだが、重要なのは、このように視線が横滑りしていく様態である。この場面が観客に恥の念を喚起せずにいないのは、いかにも恥ずかしいものとして設定された場面が俳優たちによって効果的に演じられているからではない。むしろ演技が上滑りせざるをえないような視線の構成によってこそ、恥が生み出されるというべきである。視点がずらされることによって、俳優たちは孤立させられ、承認されることのないままに、“浮い”てしまうというわけだ。

 ほとんど原則であるかのように、デプレシャンの作品において、登場人物は"斜め"から見られる。そして恥は、"斜め"の視線によって積極的に構成される。例えば、歌の場面にそれは顕著である。『魂を救え!』(1992)において、マリアンヌ・ドニクールが大勢の前で練習中の歌を披露する場面。『そして僕は恋をする』(1996)でエマニュエル・サランジェがピアノの弾き語りを披露する場面。『二十歳の死』の従弟のひとりがレコードのモーツァルトを聞きながら思わず歌い出してしまう場面。誰かが歌う場合、心地よい場の一体感が生まれてもよさそうなものだが、デプレシャンの場合はむしろ場のいびつさばかりが際立つ。ことは歌に限らない。『魂を救え!』の冒頭、外務省の人間がチャーチルについての小話を披露する場面。あるいは法医学の教官が授業中に検死のおぞましさをヒステリックに説教する場面。誰かが人前でなにかを演じるとき、カメラはときに誰かそこに居合わせた人間のシニカルな視線を借りつつ、"斜め"からその人を観察し、彼らの意識の届かない部分を切り出してしまう。観客がここで覚えるスリルは極めて即物的なものだ。『そして僕は恋をする』の冒頭も典型的である。主人公がカフェで自身の幼年時代のエピソードを大勢の仲間の前で披露するのだが、カメラはその前に、彼が自室でひとり喜々としてこの小話を仕込んでいるところを写してしまう。したがってカフェの場面では、主人公が"演技中"であることが透けて見えてしまうのだ。

 デプレシャンのカメラがあまりにあわただしく視点を変える理由の一端もここに求められる。登場人物同士のアクションとリアクションを支える基底としての空間そのものを一塊に捉えるショットはほぼ皆無である。演じ手を孤立させるためであるかのように、登場人物全員が浸りきることのできる単一空間の持続は避けられ、タイトなフレームでひとりひとりが別個に切り出される。顔がひっきりなしに交替し、視点は絶えず移り変わる。それぞれの顔がそれぞれ別様の視線から眺められるために、その構成は累乗的な複雑さに達することさえある(『二十歳の死』におけるいとこたちの会話)。デプレシャンがフランソワ・トリュフォーから受け継いだと自ら述べる有名な映画制作の心得えに、「1分間に4つのアイディアを盛り込むべし」というものがあるそうだが、ここで述べられたような齟齬の空間を造形するためには、実際、それだけのアイディアが必要なのだともいえないだろうか。例えばキャラクターAとBが対話をする場面があるとして、Aが自分に対して抱くイメージ、BがAに対して抱くイメージ、Bが自分に対して抱くイメージ、AがBに対して抱くイメージ、この4つをそれぞれ分離して際立たせるような4つのアイディアが必要、というように。

 だからこそ、デプレシャンの作品をひとつの物語として要約することは難しい。ナタンがああして、ポールがこうして、と羅列していったとしても事態が説明されたことにはならない。デプレシャンの作品は真の意味での群像劇であり、したがってナタンの視点で描かれる物語、ポールの視点で描かれる物語はそれぞれ個別に記述されるしかない。それこそ複数のナレーターがそれぞれの視点で介入する『そして僕は恋をする』の構成原理であった。肝心なのは複数の物語間に生じる齟齬と、この齟齬によって個々人が具体的に経験する恥の感情である。「僕らはふたりきりでいるときはうまくいくのに、大勢の中だと最悪だ」。

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 ここから、デプレシャンの常連俳優たちがひっきりなしに浮かべるあの薄笑いの価値が理解されるだろう。特に最新作『キングス&クイーン』の主演俳優ふたり、マチュー・アマルリックとエマニュエル・ドゥヴォスの顔のしまりのなさに注目したい。正統的な美男美女とは呼びがたい彼らの顔は、しかしそのしまりのなさによってこそ、他者から注がれる過酷な視線を柔らかく吸収することができる。『キングス&クイーン』制作にあたってデプレシャンがとくにその必要性を強調していた「軽さ」は、彼らが、自身の抱く困惑を肯定も否定もせずに保持する中間地帯の薄笑いとして実現されている。例えばウディ・アレンのように予定調和的なセルフ・パロディへと開き直るのではなく、また、イーストウッドのような成熟を志向するのでもなく、彼らはただ恥を未消化のまま、顔の上に留めておくだけである。だが逆説的にも、彼らの顔に浮かぶ恥の徴しこそが、デプレシャンの群像劇をまとめあげる肯定的な契機でもあるのだ。なぜなら、原理的に孤立させられた個々の小世界は、もっぱら齟齬するしかないためにひとりひとりを恥じ入らせずにおかないのだが(アマルリックの孤軍奮闘)、同時に、恥の感覚においてこそ、各人は他者との繋がりを維持することができるからだ。デプレシャンの登場人物に与えられる試練は、恥への耐性を高めることである。要するに、恥知らずにならないこと、ある意味で、恥を肯定すること。

 以上のようにデプレシャンのセノグラフィー(舞台構成法)を捉えるならば、これはやはり「変則」以外のなにものでもないといわざるをえない。彼の演出論の大胆さを理解するために、例えば、ロベール・ブレッソンの次の言葉をつき合わせてみることができるだろう。

「俳優の表情豊かな顔、そこでは、彼が思いのままに作るもっとも小さな皺さえも、虫めがねで拡大してみると、歌舞伎役者の過剰さを思わせる」*1

 ブレッソンは知られるとおり、俳優たちに一切の演技を禁じ、素人俳優のみを起用して物語映画を作った監督であるが、上の章句は演技を禁じるべき理由を説いたものである。すなわち、俳優の演技がどんなに巧みなものであったとしても、一旦スクリーンに移植されれば半ば必然的に過剰さの印象をはらんでしまう。なぜならカメラが記録することができるのは「皺」だけであり、俳優が意図した「表情」なるものをこの「皺」が再び観客にその意図された通りに伝える保証はないからである。それどころか、俳優が意図した「表情」は、非常に多くの場合、「皺」の無関心によって裏切られる。俳優の登場しないドキュメンタリー映画の場合でもことは変わらない。「表情」がその一部であるような直接的諸感覚の交流が生きられる環境から、カメラ(=虫めがね)が「皺」だけを抜き出す点では同じだからだ。ブレッソンがとった解決策は徹底的で、俳優に芝居をすることを禁じ、そしてものを考えることすら禁じ、ひたすらモノトーンに喋り、振る舞わせるというものだった。その結果、俳優たちの顔からは一旦「表情」が奪われるわけだが、しかし意味の負荷をもたない純粋な「皺」から、モンタージュを経て、新たな「表情」が自在に発生することになる。クレショフ効果を成立させていたのがなによりイヴァン・モジューヒンの無表情であったのと同じ原理である。実際、ブレッソンはロバの顔にも豊かな「表情」を与えてみせた(『バルタザールどこへ行く』[1966])。ブレッソンは「俳優の豊かな表情」を奪うことによって、同時に俳優たちを恥ずべき作為性から解放しようとしたのであり、ついでにいえば、宗教作家と呼ばれもするブレッソンにとっての「イノセンス」は、まずなによりこうした演出論の文脈から読まれるべきものである。こうした「無表情の美学」に一旦触れてしまうと、その誘惑に抗うことは容易ではない。演技を抑制させることによってかえって顔に豊かな饒舌さを帯びさせること。ブレッソンほど徹底させるのではないにせよ、この定式は多くの作家たちが演出の拠り所とする指針である。

 ところでデプレシャンは、上述したブレッソンの教えをまるで逆用しているかのようだ。彼の興味は、おそらく、美しい映画を作ることよりも、現実の世界にある通りの恥ずべき生を表現することにある。実際のところ、カメラが回っていようがいまいが、人はとにかく芝居をしつづけて生きるしかない。スクリーンから恥ずべき作為性を追放しようとする考え方が一方であるならば、デプレシャンは作為性から出発する作家である。恥と生きにくさを抱えながらサヴァイヴし続ける人間を描くために、デプレシャンはまず作為性を強調し、恥をめぐる豊かなニュアンスを必要としているともいえるだろう。彼はカトリックの問題圏に興味を示しつつも、結局のところ「イノセンス」(とその必然的な帰結としての殉教)を志向することはなく、生の卑俗な領域に根を下ろす。デプレシャンは俳優が洩らす「歌舞伎役者の過剰さ」をむしろ積極的に取り入れる。ここに彼の演出家としての特異性がある。そしてなにより賞賛すべきなのは、そのデプレシャンに付き合いつづける常連俳優たちの存在であろう。スクリーンに映った自分たちの姿を見て、おそらく彼らはまず苦笑するに違いない。なにしろそこにあるのは"演技中"の不安定な自分であるのだから(ちなみにデプレシャンはNGテイクさえも平気で使用してしまうらしい)。エマニュエル・ドゥヴォスはデプレシャンの映画に出ることの恐ろしさについて語っているが、実際、ここで要求されているのは「演技の恥」を晒すこと以外の何ものでもない。しかし、それだからこそ、演技をすることには、容易ではない覚悟が伴うのだろうし、その限りにおいて、演技をすること自体が肯定の身振りにもなるのだ。『エスター・カーン』の最終シーンがそのことを見事に示していた。すなわち、恥を耐えることでエスターは俳優になる、そして同時に、俳優になることでエスターは恥を耐える。



脚注

*1.
Robert Bresson, Notes sur le cinématographe, folio, Ed. Gallimard, 1988, première parution 1977, p.29. (邦訳=松浦寿輝訳『シネマトグラフ覚書 映画監督のノート』筑摩書房, 1987年, 25頁.)

『キングス&クイーン』 ROIS ET REINE

監督:アルノー・デプレシャン
脚本:ロジェ・ボーボ、アルノー・デプレシャン
撮影:エリック・ゴーティエ
編集:ロランス・ブリオー
音楽:グレゴワール・エッツェル
キャスト:エマニュエル・ドゥヴォス、マチュー・アマルリック、カトリーヌ・ドヌーヴ、モーリス・ガレル、ナタリー・ブトゥフー
2004年/フランス/210分

04 Jul 2006
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