ジャック・ターナーと私たち──Lost&Found Ⅰ

葛生 賢

 小津安二郎生誕百年を記念して行われた国際シンポジウム「OZU2003」の席上でポルトガルの映画作家ペドロ・コスタは、小津とジャック・ターナーにはどこか精神的に共通するものがあるという謎めいた言葉を呟いてそのスピーチを締めくくる。日本映画というよりは今や世界映画の巨匠である小津と、わが国では『キャット・ピープル』(1942)に代表される「B級ホラー」の映画作家とみなされているジャック・ターナーが精神的に一体何を共有しているというのだろうか。さらに驚くべきことに翌年再び来日したコスタは、今度はターナーとロベール・ブレッソンの名前を並べてみせるだろう。映画を巡る言説の内にひとつの名前が忘却の淵から召喚され、それが思いもよらぬ斜線によって別の名前と結びつけられる。現代映画の最前線にいる映画作家からのこの挑発を契機として私たちの思考は回転を始める。ジャック・ターナーとは誰なのか。

 ジャック・ターナーには「B」という記号が常につきまとう。例えば「無声時代の巨匠モーリスを父に持つターナーは、〔…〕ハリウッドで成功したフランス人の数少ない一人だが、「A級映画」に抜擢された大作より、「B級」に戻った活劇『ベルリン特急』(1948)などの方が遥かに充実している」(蓮實重彦『ハリウッド映画史講義』, 135頁)と語られるように、RKOの「Bユニット」でプロデューサーのヴァル・リュートンと組んで『キャット・ピープル』、『私はゾンビと歩いた!』(1943)、『豹男』(1943)といった「B級ホラー」のヒット作を連発した後(これらの作品は経営難のRKOを救うことになる)、ふたりでこれだけ儲かるのだから別々にすれば2倍儲かるだろう(!)という上層部の判断でこのコンビは解消され、ターナーは「A級映画」を作らされることになったにもかかわらず(Chris Fujiwara, Jacques Tourneur : the cinema of nightfall, p.108)、しかし蓮實が指摘するように、ターナーの最良の作品が「B級」であることもまた確かである。そのことはターナー自身が認めている。「私は早く撮らなければならない時の方が良い仕事をします。12日か18日くらいで撮った映画の方が、80日かけて撮ったものより良いのです。考える時間がありすぎると悪い作品になってしまいます。全ては直観から生じなければならないのです」(Charles Tesson, Photogenie de la Serie B, p.82)。しかし私たちはそうした「A」か「B」かの二者択一に囚われずに、ジャック・ターナーの映画作家としての本質を見極めなくてはならない。ただし逆説的だが彼の「B級映画」を見ることによって。

 リュートン=ターナーの最初の作品である『キャット・ピープル』は、「B級ホラー」と見なされがちだが、その画面に視線を向けてみればそれが「フィルム・ノワール」的風土の中で撮られたものであることが分かる。映画史的には、「フィルム・ノワール」は、『マルタの鷹』(ジョン・ヒューストン監督, 1941)、または『三階の他人』(ボリス・イングスター監督, 1940)をもって始まるとされるが、後者の撮影が『キャット・ピープル』を手掛けたニコラス・ムスラカである点は興味深い。『偉大なるアンバーソン家の人々』(オーソン・ウェルズ監督, 1942)のB班を担当したこのキャメラマンは、再びターナーと組んで、「フィルム・ノワール」の傑作『過去を逃れて』(1947)を撮る。ジェイニー・プレイスとロウウェル・ピータースンが「フィルム・ノワール」の撮影術の特徴として挙げた「光と闇の領域の絶えまない対立」や「屋内セットは常に暗く、壁には不吉な予感をさせる影模様」(「フィルム・ノワールのいくつかの視覚的モティーフ」『フィルム・ノワールの光と影』, 63-64頁)といった表現はまさにこの作品にもぴったり当てはまる。しかしターナーの独創性はそうしたこととは別のところにある。それを確かめるために、『キャット・ピープル』のあまりにも有名なスイミングプールの場面に先立つ更衣室のシーンを見てみたい。

 性的欲望を感じると豹に変身してしまうという恐怖をいだいているイレーヌ(シモーヌ・シモン)は結婚したばかりの夫オリバーと性交渉を持ち得ず、彼は同僚の女性アリスに心を移しかけている。それを嫉妬したイレーヌはアリスをつけ狙うようになる。問題の場面は、3人で博物館に行った後、先に帰ると見せかけたイレーヌがふたりの乗ったタクシーを追って、アリスの通うスイミングプールのある建物に着いた場面に続くものである。博物館のシーンの最後のショットで、階段の途中に立ち止まってイレーヌがふたりのいる方を見上げるとその側にエジプトの猫神の巨像が見え、その像の尖った耳が壁に落とす影を彼女が階段を降りながら横切る点も興味深いのだが、それはさておき、アリスが更衣室からプールに飛び込むまでのショット構成は次のようになっている。

1. 水着の上にローブを羽織り、画面右から左へ進むアリス(背後からのフル・ショット)。
2. 室内灯のスイッチに手をかけるが、猫の声がするので視線を落とすアリス(ミディアム・ショット)。
3. 何かにおびえる猫。
4. 近距離からの無人の階段。
5. 再び猫。
 
6. アリスは下から上に視線を移すがすぐまた猫に視線を戻す。
7. 逃げ去る猫。
 
8. アリスはその猫を目で追ってから、フッと笑ってスイッチを切る。
9. 真っ暗になる更衣室。奥の階段だけが明るい。アリスは階段の方へ歩いていき、やや上方に首を傾ける(背後からのフル・ショット)。
10. 先ほどより離れた距離からの階段。
 
 
11. 階段を見るアリスはそのまま右側に移動する(ミディアム・ショット)。
12. やや右からのアングルの階段(獣のうなり声が聞こえ始める)。
13. びくっとするアリス(バスト・ショット)。
14. 階段の壁に何者かの影が動く。
15 a. →アリス後ずさりし、向きを変え、プールの方に消える(ミディアム・ショット)。
→15 b.
 

 ここで面白いのはショット3からショット6へと到る画面構成で、ターナーは「アリス」→「猫」→「階段」→「猫」→「アリス」という順につなげているのだが、ここでの編集があまりにも滑らかなので観客は「怯える猫にうながされて無人の階段をアリスが見る」というように解釈してしまうだろう。しかし注意深く見てみるならばショット4の「階段」は「アリスの見た目ショット」ではなく、「猫の見た目ショット」であることが分かる。というのもショット6の出だしのアリスの眼差しは依然、猫に注がれているからである。しかもこのショットでのアリスは一瞬、目を上にあげるもののすぐまた猫に視線を戻してしまうので、この時点では「階段」は「アリスの見た目ショット」としては構成されない。それが「アリスの見た目ショット」として提示されるのは、ショット10に到ってからである。しかしすでに述べたようにショット3からショット6へのつなぎがあまりにも滑らかなので、あたかもそれが「アリスの見た目ショット」に見えてしまう。しかし自然にそう受け取ったとしても、それは意識下に何らかの違和感を見るものに残す。クリス・フジワラが『豹男』の墓地のシーンの分析で述べたように、それは「方向感覚の失調の効果」を生み出すと言ってもよい(Chris Fujiwara, Jacques Tourneur : the cinema of nightfall, p.103)(あるいは、この「猫」から「アリス」への視覚における通底性は、「イレーヌ」から「豹」への生成変化を逆転写させたものと言えるかもしれない)。

 この場面での猫が何を怖れているかといえば、それは豹=イレーヌであることは、この映画の最初の方で、オリバーがイレーヌにプレゼントした猫が彼女に敵意を示す場面や、それに続く、イレーヌがペットショップに入ると動物たちが騒ぎ出す場面によってすでに暗示されている。『キャット・ピープル』以前のユニヴァーサルのホラー映画にも、『ミイラ再生』(1932)や『狼男』(1941)のように、外見は普通の人間とさして変わらない存在に対して犬が異常を敏感に察知して吠えるという場面があるが、ターナーのようにそれを動物の「見た目ショット」としてさり気なく提示した映画作家はいない。ここには観客の視覚閾に挑戦しようとする遊び心さえ感じられる。さらに続く室内プールのシーンでは、アリスとその「見た目ショット」を交互に切り返しながら、その切り返しがあまりにも厳密であるがゆえに逆に見るものの方向感覚を徐々に失調させていくターナーの鮮やかな手つきを見ることができるのだが、それについてはここでは省略する。むしろこの室内プールの場面で特記すべきなのは、そこでの映像と音響との関係である。獣のうなり声とアリスが水かきをする音、それらの反響音、そして叫び声と静寂によって構成されたこの場面の音響は実に素晴らしい。しかもアリスの恐怖の対象は、時おりその影を壁に映すだけで常に「フレーム外」にとどまっている。ジャック・ターナーの作品にあって、恐怖の対象は「フレーム外」に存在するのだ。『狼男』がそうであったように、映画にあっては、恐怖の対象はフレーム内に視覚化されてしまうやいなや、見るものを呪縛する力を失ってしまい、むしろ滑稽でさえある存在へと変わり果ててしまうのだ。このことは『キャット・ピープル』とポール・シュレイダーによるそのリメイクを比較してみれば分かる。その点について、蓮實はこう述べている。「オリジナルでは暗示的なショットの効果的な連鎖によって雰囲気として語られていた変身過程が、シュレイダー版では見えるものとして示され、視線いがいの諸々の感性を刺激する前者の修辞学は、後者では、もっぱら瞳ばかりに働きかけるイメージに置き代えられている」(蓮實重彦『ハリウッド映画史講義』, 176頁)。すべてが見えてしまうことの退屈さを私たちはシュレイダー版に感じるが、それはこのリメイクに限らず、現代の多くの映画が罹っている病である(ちなみにこのリメイク版が、ジェリー・ブラッカイマーの初期プロデュース作品であることは示唆的である)。そのことを蓮實は「ヘイズ・コード」消滅後の「物語からイメージの優位へ」の移行過程としてまとめているが、いま問題にしたいのはそのことではなく、そこで「視線いがいの諸々の感性を刺激する前者の修辞学」と呼ばれていたものとは、端的に「フレーム外」の音響への感性なのではないかということだ。それを確認するために『私はゾンビと歩いた!』と『豹男』を見てみたい。

 『私はゾンビと歩いた!』で、生ける屍と化した女性ジェシカを連れて、看護婦のフランシス・ディーがブードゥー教の集会へと夜のサトウキビ畑を通り抜けるシーン。ジェシカの白いドレスが吹きすさぶ風にたなびく様子がすばらしい、この台詞が一切排除されたほぼ10分間の場面は、ふたりの微かな足音、風音、サトウキビの葉が彼女たちの衣服に擦れ合って立てるカサカサという音、さらに徐々に大きくなっていくドラムの音とブードゥー信者たちの歌声のみによって構成されていて、音響的にも実に見事である(同時代のハリウッド映画でこのような音響的な実験を試みている作品は他に思い当たらない)。ついに目的地に辿り着いた彼女たちが目にするのは、トランス状態に入って踊るブードゥー信者たちの姿なのだが、ドラムの音と彼らの歌声が最高潮に達した瞬間のすぐ後に訪れる静寂の美しさは比類がない。このドラムの音は、すでに映画の冒頭から遠くに聞こえていたもので、ヒロインを誘惑するものとして機能している。彼女は患者を治療させるためというよりは、彼女を誘う音に惹きつけられて歩を進めているのだ。しかもこの場面でその音が聞こえ始めるのは、フランシス・ディーの胸につけた目印の布が外れてしまった直後からである。その布は集会に参加するための目印として召使の黒人女から与えられたものだが、それがなくても集会の黒人たちが誰も彼女を咎めないところからすると、やはりそれは誘惑としての音から彼女が身を守るものとして機能していたのだ。彼女が誘惑としての音に敏感であることは、ジェシカの夫であるトム・コンウェイの弾くピアノの音に誘われて居間に行き、そこで彼に対する秘めた愛情を自覚してしまう場面でも明らかである。さらに言うなら、この映画では、植民者のピアノと被植民者のドラムの中間に位置する楽器として、カリプソ歌手が肩に掛けているギターがあり、彼女はジェシカにまつわるスキャンダルを彼の弾き語りによって聞かされるだろう。

 あるいは『豹男』。夜遅く母親に買い物を命じられた少女は、その帰り道に辺りを徘徊している黒豹と遭遇してしまう。玄関のドアを叩いて開けてくれと叫ぶ彼女は、しかし母親が少女の言葉をなかなか信じず、ドアが開くのが間に合わなかったために豹に襲われて死んでしまう。少女が豹に出会う荒涼とした町外れの無気味な橋の下の暗がりの場面の演出も素晴らしいが、やはり圧巻なのは少女が絶命する場面で、ターナーはそれを室内の母親と弟のリアクションだけで見せており、ドアの外にいるはずの少女の姿は決定的な瞬間には決して示されることはない。私たちが目にするのは、ただ閂をかけたドアのショットとそれに被さる彼女の悲鳴と豹の獰猛なうなり声である。そしてその音が止んだ後、ドアの下の隙間から室内の床に黒々とした彼女の血が延びていくだろう。

 これらのシーンで重要なのは、音響を発している主体があくまでも「フレーム外」にあることである。それらは「フレーム外」にとどまることで、その力を十全に発揮する。この点において、ジャック・ターナーはロベール・ブレッソンに比肩しうる。しかも彼の試みはブレッソンに先んじているのだ。「フレーム外」から私たちをとらえるもの、それは暴力であり死であるが、『抵抗』(1956)において、それらが「フレーム外」にとどまることで逆説的に私たちをとらえるのと同様に(中庭での銃殺刑の音響を思い出してみよう)、『豹男』のドアの外での少女の死ほどの鮮烈さで暴力と死を描いたものは他にない。そしてそれを保証しているのは、ブレッソンにあってと同じく「フレーム外」の音響の生々しさなのである。

 小津安二郎とジャック・ターナーに精神的に共通するものを見出すペドロ・コスタ(『国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年記念「OZU2003」の記録』, 230頁)はまた、ブレッソンの『ラルジャン』(1983)とターナーの『ナイト・オブ・ザ・デーモン』(1957)を比較してこう述べている。「2本の映画はともに、ものごとを可視化する映画だということができるでしょう。ある不可視なものを可視的なもののなかで表現するのです。〔…〕不可視なものを表象するということは、それがイメージになること、音と映像になることなのです」(『ペドロ・コスタ 世界へのまなざし』, 121頁)。ここで彼は「不可視なもの」とは「悪」であると注釈しているが、「ある不可視なものを可視的なもののなかで表現する」という言葉ほどジャック・ターナーにふさわしいものはない。そして「可視的なもの」のなかで表現される「不可視なもの」はあくまでも「フレーム外」にとどまるのである。

 ジル・ドゥルーズは「映画においてアイディアを抱くとはいったい何なのか」と問いかけ、そうしたもののひとつとして「視覚的なものと音響的なものとを乖離させること」を挙げている(「創造行為とは何か」『狂人の二つの体制 1983-1995』, p.186)。それは単なる「乖離」ではなく、「乖離=再編成」といったほうが適切だと思われるのだが、現代映画にみられるこうした「視覚的なもの」と「音響的なもの」との「乖離=再編成」をジャック・ターナーはロベール・ブレッソンとともに、その「フレーム外」の音響への感性によって準備したのだ。ただし彼の映画がそうであるようにひっそりと慎ましく。

 クリス・フジワラによれば、「ターナーの映画の多くはある種の旅路についてであり、その旅をする人というのはかなりの頻度で女性」である。そしてその「旅」とは、壊れかけた「家」を再構成するために「家」を離れる「旅」である(「ターナー、プレミンジャー、成瀬によるいくつかの映画における家を離れる旅」『季刊インターコミュニケーション』No.56所収, 138-139頁)。しかしその「旅」は、私たちが馴れ親しんだ視覚的・音響的編成としての「家」(「古典的ハリウッド映画」)から、それらの「乖離=再編成」へと誘うイニシエーションの「旅」でなくて何だろうか。『私はゾンビと歩いた!』のふたりの女性の「旅」や『豹男』の少女の「旅」とともに、私たちは「視覚的なもの」と「音響的なもの」との新たなあり方へと目覚めるのだ。

 ジャック・ターナーはその視覚的・音響的なイメージの冒険を通して現代映画を準備した映画作家である。しかも全盛期のハリウッドで。ヒッチコックのような華麗な身振りによってではなく、人目を避けつつ寡黙にそこに穴を穿つようなやり方で。では今日、ジャック・ターナーの血脈はどこに見出すことができるだろうか。それはペドロ・コスタに、あるいは黒沢清に。

参考文献

小川直人・土田環編:『ペドロ・コスタ 世界へのまなざし』せんだいメディアテーク, 2005年.
ジル・ドゥルーズ:「創造行為とは何か」『狂人の二つの体制 1983-1995』廣瀬純訳, 河出書房新社, 2004年.
蓮實重彦:『ハリウッド映画史講義』筑摩書房, 1993年.
蓮實重彦・山根貞男・吉田喜重編:『国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年記念「OZU2003」の記録』朝日新聞社, 2004年.
ジェイニー・プレイス/ロウウェル・ピータースン:「フィルム・ノワールのいくつかの視覚的モティーフ」細川晋訳, 遠山純生編『フィルム・ノワールの光と影』所収、エスクァイアマガジンジャパン, 1999年.
Chris Fujiwara: Jacques Tourneur : the cinema of nightfall, Johns Hopkins University Press, 2000.
──:「ターナー、プレミンジャー、成瀬によるいくつかの映画における家を離れる旅」水野祥子訳, 『季刊インターコミュニケーション』15巻2号[No.56]所収, NTT出版, 2006年.
Charles Tesson: Photogenie de la Serie B, Cahiers du cinema, 1997.

付録「ジャック・ターナーと恐怖の三部作」 (ティエリー・ジュスによるジャック・ターナーの紹介記事)

映画監督モーリス・トゥルヌゥールの息子、ジャック・ターナーは1904年11月12日にパリで生まれた。1914年、彼の父親はアメリカに旅立ち、そこで著名な映画監督となったが、その時一緒にジャックもハリウッド入りした。1919年にアメリカ国籍を得てから数年後(正確には1924年)、ジャック・ターナーはMGMに雇われ、父の小道具係、俳優、アシスタントとしてスタートを切った。1927年、モーリス・トゥルヌゥールはフランスに帰国。息子は父親に同行し、その映画の編集者となり、それから1931年に『愛に適うものはなし』で映画監督としてのキャリアをスタートさせる。なおこの映画にはデビューまもないジャン・ギャバンが出演している。数本のマイナー映画をフランスで撮った後、1935年、ジャック・ターナーはハリウッドに帰る。MGMで彼はプロデューサーのヴァル・リュートンと出会い、その下で、ジャック・コンウェイ監督の『二都物語』のバスティーユ襲撃のシーンを演出する。この出会いは、ジャック・ターナーの経歴上、決定的なものである。というのもそれによって、約20本ほどの短編と何本かのシリーズものの後、1942年の名高い『キャット・ピープル』、続く1943年の『私はゾンビと歩いた!』と『豹男』とともに彼のキャリアは本格的に開始されたからである。それらはRKOの枠内でヴァル・リュートンによって製作されたいわば恐怖の三部作を形作っている。この衝撃的な三部作の後、ジャック・ターナーはリュートンと別れ、大抵は自分で選んだわけではないジャンルとシナリオに仕える控えめな仕事を続けることになる。

 そのことは彼が重要であることの妨げにはならないし、彼はしばしば、B級映画作家の模範、最も隠された不可視と恐怖の探究に基づくニュアンスに満ちたスタイルの控えめな演出家とみなされてさえいる。60年代の初めまで、西部劇からフィルム・ノワールや海洋冒険映画にわたって、ジャック・ターナーはある現実的な余裕をもって、長い間あまり知られていなかった一握りの傑作を撮ったが、そのなかには、今日誰もがフィルム・ノワールの頂点と認めるロバート・ミッチャムとカーク・ダグラス主演の『過去を逃れて』(1947)、燃えるように輝くと同時に精緻な海賊映画の『女海賊アン』(1951)、神話的な人物である保安官ワイアット・アープの彼なりの解釈を提示した西部劇の『法律なき町』(1955)、長い間フランスでは未公開だったが今ではデヴィッド・グーディスの最も美しい翻案とみなされている『夕暮れ』(1956)、さらには、最後の瞬間に彼の映画にばかげた怪物を登場させるように強いたプロデューサーたちとの軋轢にもかかわらず、よろこびに満ちて彼がヴァル・リュートンとの三部作の幻想的な世界に回帰した、悪魔学のぞっとするような正確さに満ちた『悪魔の夜』(1957)などがある。1966年にフランスに戻ってベルジュラックに居を構え、1977年12月19日に亡くなるまでジャック・ターナーはそこで静かな日々を過ごした。フランスでの最後の滞在の間、ターナーは新しい映画を編集しようと虚しくもとめたのだが、また彼は「カイエ・デュ・シネマ」「プレザンス・デュ・シネマ」「ポジティフ」らフランスの映画狂の傍らで遅まきながら誠実でさらには排他的な承認を勝ち取った。その死から20年以上も経って、ジャック・ターナーは、映画狂によって、オットー・プレミンジャー、フリッツ・ラング、ダグラス・サークのようなハリウッドに亡命したヨーロッパ人として、現代の古典の殿堂のなかに重要な地位を与えられ、今日再びそれに続く世代にとって不滅でますます重要な崇敬の対象となっている。
(訳:葛生 賢)

03 Jul 2006
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