イタリア人による“アンチ・ルネサンス”の賛歌
『四つのいのち』監督ミケランジェロ・フランマルティーノ インタヴュー

インタビュー

 命はどこまで広がりを持っているのだろう? 「幸福な」命と「不幸な」命などというものがあるのだろうか? 私たちは命について人間中心に捉えがちだ。だが、私たち自身から焦点をずらしてみると、まったく異なる世界、そこに息づく「いのち」のサークルが見えてくる。
 『四つのいのち』は決して「難解な」フィルムではない。一切のナラティヴな台詞を排した作品世界は、耳で観て、心で聴く深い響きに満ちている。ミステリアスでもあり、思わず微笑みを誘うユーモラスな場面もある。極めてオリジナルなフィルムを完成させた監督ミケランジェロ・フランマルティーノに作品の制作プロセス、彼の映画観などについて語ってもらった。(取材・構成/石橋今日美)
 

——第1作の『Il Dono』(2003)から今回の作品まで約7年間経過していますが、その間何に取り組まれていたのですか?

まずこの作品の撮影が長期間に及びました。何を撮るか決めてから、カンヌに行き着くまでに5年間かかりました。制作でも非常に不幸なことがあり、1年半撮影が中断しました。そのときも再開できると何度も思いながら、その都度中止されたので、すごくストレスもたまりました。ロケーションや炭焼き、木の祭りを見て、ものすごくいいなと思い、これをつなげて、アニミズムの要素も取り入れようと考えたんですけど、そうやって考えている間に、自分に撮れるのだろうかと自問自答した時期もありました。そのような経過を経たので、大変時間がかかったわけです。

——ではあらかじめ、あるコンセプトやシナリオが頭にあって撮影したのではなく、その土地に魅かれて即興的に撮り始めたのでしょうか?

最初の作品『Il Dono』を撮って以来、自分はミラノの生まれなのですが、家族みんなの出身地であるカラブリアに何度も行きました。ただ『Il Dono』を撮るまで10年間カラブリアに帰ってなかったんですね。なので、なぜカラブリアで撮るのかという意味を理解したいという思いもありました。カラブリアに何度も行くようになると、友人や映画を見てくれた人などに「もっといい場所がある」「いいところで映画を撮れる」と案内されることもありました。その中で見た場所で撮影が始まったということは、ものすごく意味が大きいですね。自分が興味を持ち、撮りたかったものはありましたけど、それよりも四つの場所があり、四つの形があった、と言えると思います。

——場所と関連して、現地に住む職業俳優ではない人々、また動物たちの映画出演はどのように進められたのでしょうか?

まあ、山羊はプロでした(笑)。まず場所があり、その場所からイメージを膨らませて準備するわけですね。どうやって準備するかというと、まず人や動物たちを見るわけです。その中から、自分の興味のある対象を選び出します。私は脚本ではなく絵コンテを描いていくのですが、例えば山羊をみて絵コンテを描き、それを再現するために撮影をする。だから現実から出発して、現実を観察してそれを撮って、そして出発点だった現実を新たに生み出すという二重の作業になっていくわけです。その中で、コントロールできないものとの関係性を構築していかなければならないわけですよね。人間の本能から、コントロールしようという気持ちがどうしても働くわけだけれども、実際には完全にコントロールできないものと関わらなければいけないという、自分の中で遊戯的な関係を作っていく必要がありました。

——その土地、現実とのコラボレーションがあったということでしょうか?

もちろん。協力と葛藤です。その土地に影響されるという意味ではコラボレーションですが、完璧にやろうとすると葛藤が生じます。ただその葛藤、闘いの中で自分は常に負けなければいけない。勝つ必要はないわけで、勝ってしまうとその映画の中に撮られたものというのは、死んだものしか映っていないわけです。打ち負かされたものが映っているわけだから。相手を勝たせなければならないわけですよね。ですから撮影クルーは、敢えてちょっと弱い力を持っているメンバーでのぞんだわけです。被写体の方を勝たせるために、完璧にはコントロールできないスタッフで取り組みました。

——実際にはスタッフは総勢何人くらいでしたか?

毎回の撮影で固定した人数ではなく、山の中に木を撮りに行ったときは4、5人でしたし、犬の出てくる長廻しのときは、25〜30人くらいのメンバーでした。

——この作品で印象的なのは台詞がないことと、クローズアップの次にロングショット、というように被写体との距離の大きな変化を見せる編集でした。編集の構想はどのように?

台詞を使わないというのは撮影前から決めていました。なぜかと言うと、まず作品の目的として、人間を中心からはずす、というのがありました。年老いた牧夫から始まりますが、次は動物になって、動物から植物になって、植物から鉱物になるという四つの状態を経ていくわけですけども、その中で人間は中心ではなくなる。それはなぜかというと、人間とその他の物事とのつながりを探すためにそういうことをしたわけです。そのためには説話のためにある台詞を使わずに、イメージと音で表現しようと試みました。
アップはこの映画では基本的に少ないと思います。ほとんど引きのショットで、その場合、観客がそこに何を見るかは自由なわけです。ある意味ではインタラクティヴな可能性がそこにあると思います。その自由を重んじたかったのです。それよりもスケールの問題ですね。作品の最初に老人の顔がアップで映し出されます。そこに蟻が歩いています。その場面では、老人の顔がむしろ風景と化して、それを背景に蟻が動いている。別の場面、木の祭りでは、立てられている木に人間が蟻のように群がって見えます。風景と人間の立場が逆転するわけです。そこでは風景がクローズアップのようになっていて、人間は蟻のようになっている。その逆転が面白かったので、人間と人間以外のものとの関係を逆転させた形で、人間の重要性というものを小さく、逆転して表現することができると考えたのです。ドゥルーズは、映画というものは人間とものとのつながり、特に失われたつながりを表わすことができると言ったわけですけど、それが人間にとっては薬にもなると思いますし、自分としては非常に表現したかったことです。

——日本では土葬ではなく火葬ですが、最後の場面で木が焼かれるときは、人々が集まり一種の荘厳さを感じました。人間だから、木だから、という区別なく、命あるものを葬るセレモニーのようでした。

火葬との関りというのはあると思います。炭焼き職人たちは、木であったものを炭にするわけですから、ある意味橋渡しの役をしています。作品からは最終的にカットしたのですが、白い木を運んでいる場面があって、それはモミなんですけど、白いモミなんですね。他は黒い木の中に1本だけ白い木なので、老人が死んで運ばれる棺を想起させるようなシーンがありました。運ばれていくというものは、何回か登場しますが、何らかの形で葬列を思わせます。

——先ほどから、人間が使う言語を使用しない、人間を世界の中心からずらすというお話をされていますが、もしルネサンスを単純に、遠近法のように人間の視点や肉体を基準にさまざまなものが考案された人間中心の世界の時代とするなら、本作はイタリア人による反ルネサンス的フィルムと見てもいいのでしょうか?

すごく素晴らしい見方だと思うんですけども、冗談ではなくて。確かに遠近法というのは人間を中心に据えたわけですよね。それがまず芸術の中で生まれて、科学の分野で固定化されたわけですけども、不均衡が現実のものとなってしまいました。芸術の中で遠近法が生まれて、それが記号である限りはそれでよかった。ですが、都市計画などという形になって科学の中で具現化してしまうと、人間が物事の中心になってしまい、同時に孤独にもなるわけですよね。人間は他のものと切り離されてしまうわけですから。もう一度、物事との連帯、つながりを取り戻す必要があって、それはもともと芸術が生み出したものであるから、その子孫である映画芸術がそれを取り戻させるのは、素晴らしいことではないかと思います。

——小津映画にも、例えば『晩春』(1949)の花瓶のように、人間ではなく、もの中心の長めのショットが見られ、さまざまな解釈を生みました。ルネサンスの同時代的経験のない日本の映画の中で影響を受けた、あるいは自分と近いと感じる映画作家はいますか?

小津は本当に好きです。東京に来るというと『東京物語』(1953)のことを考えますし、ヴィム・ヴェンダースの『東京画』(1985)という作品も好きです。とにかく小津は自分にとって巨大なマエストロです。小津はものの撮り方や、スペースの使い方、ローアングルにしても、すごく多くのことを教えてくれました。自分も低い位置からのショットを結構使うのですが、というのも、普通に立った人間の目線で撮ると、普段見慣れたものが見えてきます。でも例えば低い位置から撮ると、いつもとは全く違うものが見えてくるわけですよね。小津の場合は畳だったからローアングルだった、という言い方もされますけど、自分にとっては別の目線で見るということ、そこから別のものが見えてくるということを教えてくれました。それからカメラのレンズのことになりますが、常に50mmのレンズを使っていた。アングルが変わっても50mmで撮っていたということは、物事のヒエラルキーをなくすという意味があったと思いますし、50mmの画角の中で観客が自由に何を見るか、何に重要性を置くかを選択できます。アングルの中で寄ったり引いたりすることで、撮り手が被写体の重要性を決定するのではなく、見ている者に決めさせる、自由を与えるという意味があったと思います。ものの撮り方に関しては北野映画も結構やっていると思います。やくざが紙相撲をやっているシーンに続いて、海岸で本当に相撲をやっているけど周りの人間は砂を叩いている。ものと人間が逆転しているような撮り方が北野武にもあると思います。重要なことを必ずしも画面の真ん中で見せるのではなく、画面の端の方に持ってくる塚本普也監督の人間と非人間の扱いにしても、日本映画の中で重要だと思います。

——今後のプロジェクトは?

この映画では絵コンテをたくさん描いたんですけど、そのうちに絵を描き始めると止まらなくなったので、アニメをやろうかと思っています。1年半制作が中断していたときに、やろうとしていたことがあるのですが、実写映画のプロジェクトについてお話しするにはまだ早い段階ですね。

(2010年10月、東京国際映画祭来日時にて)

『四つのいのち』 LE QUATTRO VOLTE

監督・脚本:ミケランジェロ・フランマルティーノ
出演:ジュゼッペ・フーダ、ブルーノ・ティンパノ、ナザレノ・ティンパノ

2010年/イタリア・ドイツ・スイス/88分

作品公式HP:www.zaziefilms.com/4inochi/ 4月30日、イメージフォーラム他全国順次公開
21 Apr 2011

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