映画に寄せるたおやかなパッション──濱口竜介監督インタヴュー

インタビュー

 東京芸術大学大学院映像研究科映画専攻の修了作品として制作され、第9回東京フィルメックスのコンペ部門に選出された濱口竜介監督の『PASSION』は、巧緻に作曲されたフーガを思わせる。主題となる旋律のように、俳優たちの語る言葉が、トーンを変えながら響き、カットとカットのつながりが構造的に変化してゆく。言葉とイメージが揺るぎない構築性をもって組織され、ロゴスとパトスが繊細かつ力強くせめぎ合う。
 フィルメックスの上映前、ステージに上がったキャスト陣が、とても快適な現場だったことを異口同音に語った。実際、濱口監督にお会いすると、本来こちらがそうであるべきなのだが、非常に「聞き上手」な印象を受けた。この人の前でなら演じやすいだろうな、と思わず納得してしまう。作品の構想について、台詞についてなど、穏やかな口調で丁寧に答えていただく中、映画に対する鋭敏な視線と静かで確固たる情熱が印象的だった。どんな質問にも快く丁寧に応じていただいた濱口監督に、この場を借りて改めて深謝したい。

聞き手・構成 石橋今日美

Passion/action

──作品上映後のティーチ・インで、タイトルの『PASSION』が“action”の対義語だというお話がありましたが、それは本当ですか?

本当かどうかは分からないんですけど、「能動的」という意味の“active”と「受動的」という意味の“passive”が対義語になるので、それだったら“passion”と“action”も対義語であり得るんじゃないかなと思いまして。

──“passion”に駆られて“action”アクションに移るというイメージがあるのですが……。

そうですね、何となく違うもののような気がします。自分の内側から行動するものを仮に“action”として、外側からの力で何かをしてしまうことを“passion”というようなイメージでやりました。

──同じくティーチ・インで「受動的な感情のシステム」という言葉を使われていましたが、それが最もよく浮かび上がってくるのが、果歩が一睡もしないで夜を明かし、そのまま学校に出勤して教壇に立つと、不意に何かにとりつかれたように話し出す場面です。まるで彼女自身でない何かに喋らされているかのように。あのシーンは、作品全体の中で異質なものに見えたのですが、それは脚本の段階から構想されていたことなのでしょうか? それとも俳優の演技から自然とそうなったのでしょうか?

脚本の構成上と演技上、たぶんどっちもあると思うんです。構成上の思惑としてはいろいろあるんですけど、あの学校のシーンからやっぱり物語が変わるんです。今まで見えていなかったものが見え始めます。全体をそういう物語として構成したつもりなんですけど、そのことをものすごくわかりやすく視覚化したシーンとしてまずありました。[果歩が黒板に書く]表がありますし、座っていた生徒が立ち上がるというのも、ばかばかしい言い方ですけど、象徴的にあの場面が構成されることで、この映画がどのような映画かがわかりやすく示されるんだと思っていました。そしてこれだけおかしなシーンがあれば、その先この映画の中で起こることも現実的な観点からすればとてもおかしいことなんですけど、それを受け入れやすくなるかな、っていう思いがありました。他にもいろんな構成上の理由はあって、果歩っていう役が主役のつもりで作っているんですけど、前半40分くらいはほとんど触れられないので、バランスを回復しなければと思ったんです。ただ、あまりにも変なシーンだと書きながら感じて、こんなもの本当に成立するのかなと思っていたんですけど……。先程、役者さんが「とりつかれた」っておっしゃいましたけど、すごく自意識がない感じでやっていただいたと思うんです。それは見ていて「本当にすごいな、これで成立するな」と思いましたね。

──細かい演技指導はなさらなかったのですか?

ほとんどしていないですね。最初からあんな調子でやっていただきました。

──「外側からの力」にとらわれた人々についての作品ということですが、その「力」とは恋愛のことでしょうか?

いや恋愛にまったく限らず、授業のシーンで語っていた暴力というのも外からくるものですし、なにがしかの影響力というものが外側からやってくる。そして、その影響に左右されないってことは不可能だと思うんですけど、それに抵抗することはできる。現実の日常ではあまり抵抗しなくなっていると思うんですけど、その抵抗というのが主題になれば、と構想段階では思ってやっていたんですが、それがうまくいったかはとんとわからないです。できあがった物語としては、ある瞬間に登場人物のひとり、毅(たけし)というキャラクターが最初に外からやって来る影響力に囚われてしまう、それでドミノ倒しにみんな自分ならざる行動を、日常的なものではないけれど、これも自分だったという行動をとっていく、というものになりました。

──特にシャワーのシーンが鮮烈ですよね。

ええ……。どうなんですかね。あのシーンなんかご覧になって、どう思われるんですか? 僕なんか書いてて、「こんな展開が果たして受け入れられるものかしら?」と思ってやってるんですが。

──個人的には好きでした。排水穴が映るじゃないですか。それで「まさかヒッチコック?!」って一瞬嫌な予感がしたんですけど、見事に裏切られて……。シャワー室の中で、殺人が起こるのか、何が起こるのか分からないサスペンスがありました。曇りガラスにふたりの影が映るのも効果的でした。

じゃあ、よかった。ありがとうございます。

イメージの層を覆い隠す登場人物たちの言葉

──上映前の黒沢清監督とのトークで、黒沢監督は「自分だったら台詞を3分の1、5分の1くらい削るなぁ」っておっしゃっていましたけど、本当に台詞の量がすごいですよね。それは映画を撮られ始めた頃からなのでしょうか?

そうですね、ある時期ぐっと増えたんです。昔は自主映画を撮っていて、友人などに出演してもらっていたので、むしろ台詞は必要最低限しか言わせないようにしていたんですけど、ある時子供を使った映画を撮りまして、長廻しですごい台詞の量を言わせたんですね。もちろん子供なので、そこまで演技ができるわけではないんですけど、台詞を言うことで何か違う存在に見えてくるというか、子供たちが台詞を言うことによって何かを理解するということではないんでしょうけど、何か別のものになっていくっていう印象を受けて……。よく言われるように役者が台詞に魂を与えるというよりは、台詞が役者に魂を与えている、逆に役者は台詞に身体を与えているような印象でした。その時、台詞っていうのはまだきっと映画の中で、ちゃんと汲みつくされていない、まだ多くの人が注目していないものだと思いまして、これからもやっていこうと思ったんです。

──濱口監督にとって台詞とはどういう位置づけになりますか?

演技上のことというより、構成上のことで言えば、ある時脚本を書いていて、登場人物の言葉っていうのは、他の文、ト書きとかと違うものだと思ったんです。物語自体のメッセージというわけでもなく、登場人物はこういう人だから、こういうことを言うっていう、ただ登場人物のキャラクターにしか帰属していないものですよね。だから何を言わせても基本的にはいいんだな、と思った時に、バーッと増えだして。だから何を言わせてもいいっていうことは、それは別に何の真理である必要もない。何か隠されているものを覆う第一の層として、台詞を使えるなという風に思ったんです。台詞は、役者さんとの関わりの中でももちろん大切なんですけど、台詞がない瞬間っていうのが一番重要っていう意識で撮っています。

──それでティーチ・インの時に、「言葉の層をはぎとった下に映画の層がある」っておっしゃっていたんですか? 言葉がなくなった瞬間のイメージが問題になるという意味で?

そうですね、それが勝負所というか、膨大な量の台詞というのは、それを隠すためにあると。

──何かロメールを思い出しますね。

ロメールは大好きですけど(笑)。

──そうなんですか! ロメールの登場人物たちは自分が真実だと思うことを話していて、イメージがいわば真実を見せる、という形で作られています。先日のお話を聞いて、台詞の量が多いし、「言葉がなくなった時に、真実が」とおっしゃっていたので、ついロメールのことを考えたのですが。

そんな恐縮です。もちろん憧れてやっているところもありますけど、また何か違う気もします。

──その違いというのは、映像の面にも関わってくる気がします。ロメールの作品が、フレーミング自体が目立たないように撮影されているとしたら、今回の作品は、例えば前半には、さまざまなアングルからのショットが素早く切り替わる部分があり、後半には印象的な長廻しがあり、1本のフィルムの中に複数のスタイルが共存しているように見えました。冒頭の部分は1台のキャメラで撮影されたのですか?

いや基本的に最初の1時間は2カメで撮られていて、後半の1時間は1カメです。

──やはり。撮影スタイルの違いというのは、それほど気にされていなかったのですか?

むしろ複数のスタイルでやってみたいなと考えていて、この作品の前に『SOLARIS』という作品を撮ったんですけど、それは本当に自分の中で基本的なフォルムというのを決めて、それを逸脱しないように撮ったんです。ただそれでは引き出せない映画の力というものがあったとは感じていて、今回はそうじゃないことをやろうと思ったんです。物語自体は変化して、見えなかったものが見えてくるという話なので、スタイルそのものもそれに合わせて変化し、また映画の違う層が見えてくるというのを目指したんです。

シナリオについて

──台詞の分量が多くて、非常に論理的、構築的に作品が展開していきますが、脚本の執筆には長い時間をかけられたのですか?

脚本を実際に書いていた時間というのは1ヶ月くらいですね。

──撮影期間よりはるかに長いですね。

そうですね、それくらいだったと思います。

──書き直しは?

役者さんが決まった時ですね。例えば、占部さんがやられている役は、もっと年下の役だったんです。占部さんに会って、ぜひやって欲しいと思って、占部さんに合わせて書き直しをしました。

──脚本を書かれているときに、ラストについて迷いました?

それは迷いましたね。最初は結末が全然違っていて、というかもっと長くて、毅という役が主人公で、浮気をしてしまって家に帰ってきて、さらに奥さんとのケンカになり、離婚にいたるという、そういう、もろに『フェイシズ』(1968)なんですけど(笑)、まあ、そんな話だったんですけど、それが長すぎるというものもあって、あまりにもペシミスティックというか……。そんな中に、智也という人物が帰ってきて、果歩と関係が復活するという流れはあったんです。ただ、主役じゃないと思っていたので、最初はかなりいい加減なつもりで、戻ってきて仲が復活してもいいだろうという気持ちでやっていたんですけど、ここがちょうどよい終わりどころになりうるなとある時思って、ここを終わりにしたんですよね。その時に一応、そこで智也が戻ってくるのか、戻ってこないのかっていうのを改めて考えたんですけど。「戻ってきた方がいいんじゃないか」っていうのは、脚本を読んでもらっていた人に言われたこともあったし、もし戻ってこなくて、街をすがすがしい顔で歩いている男性っていう終わり方だとちょっと……(笑)。それはそれで「何だろう?」っていう気もちょっとしまして。智也が戻ってきても観客の中にちょっともやっとしたものが残るだろうとは思ったんですけど、そうやって観客にご自分の生活の中に持ち帰ってもらった方がいいかなと。

──まさにそうです! もやっとしました(笑)。というのも果歩さんがあまりにも都合のいい女になってはいないかと。彼が家を出て行く前に、「本当はこれまで好きじゃなかった」みたいなことを言われて、どうして座って泣いてるだけなんだろう、戻ってきた男性をどうして受け入れられるんだろうと思って。「『PASSION』、受難だ!」と(笑)。

(笑)。まあ、そういうことかもしれないです。ふたりにはまだこれから受難が……。まあ、その受け取り方は様々でもかまわないかな、と。

──ひとつ特徴的だったのは、登場人物がバスに乗った時に見える、みなとみらいの夜景のように、人物から見た風景ではなく、誰の視点も借りない街並みが冒頭から映し出されます。そして主人公たちに何が起ころうとも、街の遠景は最後まで登場します。そこには特別な意図があるのでしょうか?

大体3、4日の話なんですが、その期間ではやっぱり、人は変化するけど、街は変化しないというのが、大枠としてあるのだと思います。全体として日常的な世界があって、非日常というか、今まで見えてこなかったものが見えてきて、再び見えなくなるというラストなんですけど、その間中街は、隠すわけではないですけれど、枠組みとしてきっとずっと存在し続けると思います。

──あの風景はどこから撮影されたのですか?

基本的にランドマークタワーから360度いろいろ撮影させてもらったんですけど。

──住宅街は? 同じ横浜で撮影されたものですよね?

あれは猫のお墓がある高台から撮ったもので、大体学校から車で10分くらいのところです。

──猫の死から始めようと思われたのは? 最初「何を埋めているんだろう?」と思ったのです……。

ちょっとサスペンス風な感じですけど(笑)。猫は第2稿、第3稿の段階で出たんですけど、映画として生活を扱った作品であるならきっと、われわれの生活と同じように過去があって未来があるというように観客に感じてもらえるように作りたいということは考えていたので、猫が死ぬ、しかもものすごく長生きしていた猫が死ぬ、というのは、これまでずっと続いてきたことが終わったということだと思います。で、ずっと続いてきたことが終わったから、ドミノ倒しのように、何かが起こり始めた、と。

──先ほどキャスティングに合わせて役柄を書き直したというお話でしたが、脚本を書く段階では、どんな場所で、どんな人物が出てきてというのをあらかじめ具体的に想像されているのでしょうか?

ある程度はもちろんイメージがあります。ただ、前作まではそれなりに自分のイメージを押しつけるようなやり方でやっていたんですけど、その反省もいろいろあって、今回は役者さんに頼ろうと思っていました。それで脚本は、僕はほとんどト書きというものがないんですけど……

──えーっ! ト書きがないんですか?!

まったくない訳ではないんですが、人によってはものすごく細かく情景描写などを脚本に書く方もいらっしゃいますけど、そういうことはないですね。

──キャメラの動きなどは?

工場前の長廻しのところだけ、ワンシーン=ワンカットでやります、というのだけ書いてあるんですけど、基本的にはほとんど台詞しか書いていません。正直に言えばロケーションや役者さんが決まるまで分からないという状況で。それはやはり自主映画をずっとやってきて、望むようなものが手に入るということがまったくないということで、どちらかと言うと、モノであれ人であれ、実際あるものから力を借りるし、それによって変えられていくことをプラスの方向に持っていくという方法を採ろうとしていて、脚本は絶対的なものとしてはありません。

──そのおかげかあの長廻しの場面で通りかかるトラック、って感じですよね(笑)。

まあ、おかげさまで(笑)。

──あれはサン・セバスチャン映画祭でもさんざん質問されませんでした?

トラックのことは聞かれましたけど、偶然だって答えておきました。

──あれはそのスタイルを貫かれてきた頂点のようなものですね。

まあ、ご褒美のようなもので。

──あれは一発撮りだったんですか?

2テイク撮っていて、本当に朝日が出る時間帯を狙っていて、あのトラックは2テイク目なんですね。1テイク目は地平線から日が昇ってくる時間に撮っていて、光の変化としては大変きれいだったんですね。その次にビルの影から太陽が出てくる時間帯にテイク2を撮ったんですけど、単に画的なこと言えばテイク1の方がきれいだったんですけど、テイク2のトラックというのが、これは「使わざるを得ないな」と。

More real than life? カサヴェテスと映画作り

──先ほど、ジョン・カサヴェテスの作品『フェイシズ』がお話にでてきましたけど、もともと映画を撮ろうと思われたのはやはり、カサヴェテスが原点にあるのですか?

そうですね。ちょこちょこ自主映画みたいなものは、その前から軽い気持ちで作っていたんです。2000年くらいにカサヴェテスの『ハズバンズ』(1970)と『ミニーとモスコウィッツ』(1971)、『愛の奇跡』(1963)のレトロスペクティヴがあって、その時に初めて見たんですけど、何て言うんですかね、本当に衝撃をうけると言うか、今まで見てきた映画っていうものと全然違う。人生が映ってる、みたいなことを感じたんですよね。人生よりも人生らしい人生が映っていると……。そこから本気で映画を作るようになって、自主映画を撮っていると時間がなくなってきて、就職活動をしないでいると、自然と道が狭まってきて……。

──でもどこかに就職されてますよね?

一応、助監督として仕事させて頂いた期間がありました。『Focus』(1996)を撮った井坂聡さんについていたんですけど、本当にひどい助監督ぶりで、「ちょっと修行して来い」ってことで、監督の知り合いのTV制作会社を紹介してもらったんです。それで1年くらいまたADをやったんですけど、経済番組なんか作ってて、それはそれで面白かったんですけど、東京芸大に映画専攻ができたときに受験して、1回落ちて、また受けて、というそういう流れだったんです。

──芸大の大学院を受けて落ちたときというのは……?

これはですね、ショックでした。まあ最終試験までいって、黒沢さんとの面接をして「和やかに話せたな」と思っていたら落ちていまして、これはなかなかショックでしたね。

──プロの現場で上の人々の仕事を見て覚えていくのと違って、大学院の授業を通して映画作りを学んだ意味は大きかったですか?

芸大のカリキュラムはまさに良かったと思います。プロにかなり近い形で実作をしていたということと、座学があったということ、その2点ですね。大学時代はやはりほとんど理論しか学んでいなくて、それでプロの現場に入ってそれなりに痛い目をみてという経験があって、それが芸大の2本の柱の中でちゃんと融合されていったという感じがあって、それはとても良かったという気がします。

──学部生時代の自主制作では、理論と実践が結びつかなかったのでしょうか?

その当時は本当に初歩という感じで……。映画もハリウッド映画が中心で、そんなに見ていませんでした。

──では子供の頃からシネフィルで、映画をみまくっていたわけでは……?

いや、全然、そんなことはないです(笑)。普通にTVドラマやハリウッド映画を見て育ったような感じだったのが、東大の映画論の授業で相米慎二などの映画を1回目の授業から見て、それがすごく……。「こんな映画が世の中にあるのか?!」っていうようなところからまず始まって、それが自主制作でも同じで、最初は[キャメラの]ボタンの押し方くらいしか分からない。撮っていくうちに、ピントの合わせ方を覚えていくような感じで、大学時代は理論と実作がまだうまく融合しなかった気がします。

自分というフィルターを通した世界

──次回作はどんなものになりそうですか? Q&Aの時は、「構想はなくはない」とおっしゃっていましたが……。

構想はもちろんあるんですけど、それが現実になるかどうかは分からないという……。

──また群像劇の形をとるのでしょうか?

すでにひとつ書き上げた脚本があるんですけど、それは完全に群像劇です。

──恋愛は?

恋愛というか、家庭、家族というか……。恋愛も入ってきますけど。

──家庭崩壊?

まあ家庭崩壊と言っちゃえば家庭崩壊、みたいな。そういう話です。具体的に崩壊したのかどうかはちょっと分からない。

──「商業映画」を撮れ、と言われたらどうします?

全然撮ります。それもまた、現実とともに変わっていくという体験として撮れればよいと思ってますが。

──出来上がった作品は何度もご覧になりますか?

基本的に見たくないんですけど(笑)。この映画は特に観客の反応が面白くて、観客の反応を知りたくて見たりしますね。

──反応は結構分かれるのでしょうか?

泣いてる人がいたり、大笑いしている人がいたり、っていう感じなので。まあ怒っている方もたくさんいると思うんですけど(笑)。それはそれとして……。そういう反応ひとつひとつが面白いな、と。

──ご自身にとって映画作りとは? 単なる自己主張ではないですよね。

別に自分の主張とは思わないですね。もっと受け身な面があるという気がします。チームワークであるのはもちろんなんですけど、自分というフィルターを通した世界というか……。

──フィルターになるという感じでしょうか。自主映画を撮られている時は、プロの映画監督になると思われていました?

自主映画の時は、本当にやみくもですよね。本当に監督になれるかどうか分からない。

──実際に映画監督になられて、監督でいることの一番の喜びとは何でしょう?

監督でいることの喜びですか……。やっぱりいろんなものが自分を通り抜けていくことだと思います。作品が一番の通り道になりますが。作品の代表として、いろんなことが自分を通っていく体験というか、監督がOKを言わないと決まらないですよね。あらゆることが。自分にあらゆることが集まって来る。でも、あらゆることが自分の思い通りになるわけでももちろんなくって、その都度、現実を変えようとし、現実に変えられる。もっと言えば、現実と一緒に変わっていくという体験をするんだと思います。その体験の集中的な濃密さが一番監督をしていていいことだな、と。

──では実際に作っているときが最も喜びが大きいですか? 通っていくものは多いですよね?

そうですね。作っているときが一番楽しいですね。

(2008年11月 第9回東京フィルメックスにて)

『PASSION』

監督・脚本:濱口竜介
製作:藤井智
撮影:湯澤祐一
照明:佐々木靖之
録音:草刈悠子
美術:安宅紀史、岩本浩典
編集:山本良子
助監督:野原位
制作担当:渡辺裕子
出演:河井青葉、岡本竜汰、占部房子、岡部尚、渋川清彦

2008年/日本/115分

18 Feb 2009
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