サイボーグ的笑顔の行方──
クァク・ジェヨン『僕の彼女はサイボーグ』

門林岳史

 自然な表情とはなにか。さしあたりこの問いに対して、顔面に数十ほど分布している表情筋の収縮と弛緩の精妙なバランスによってそれは生み出される、と定義を与えて満足しておくことにしよう。そうするとそこから直ちに不自然な表情というものの定義も演繹されるのであって、つまりそれは、表情筋の運動の度を越したアンバランスであり、とりわけ、ごく一部の表情筋のみが極端に収縮された場合に生み出される、ということになるだろうか。そうした不自然な表情の古典的な記録として、例えば19世紀フランスの生理学者デュシェンヌ・ド・ブローニュ(1806–1875)の表情をめぐる研究がある。チャールズ・ダーウィン『人及び動物の表情について』(1872)にも参照されている『人間の顔貌のメカニズム、あるいは感情の表現の電気生理学的分析』(1862)において彼が行ったのは、被験者の顔面に電極をあてがうことでその特定の表情筋を収縮させ、それを写真に記録して観察する、というものである。写真技術の科学実験への応用の最初期の例という点でも古典としての価値を持つこの研究から一葉の写真を紐解いてみる。両頬に電極をあてがわれた被験者の顔貌は、唇の両端が大きくつり上がっており、そのことで文字通りの「つくり笑い」という印象を与えている。写真に添えられたキャプションには「大頬骨筋の強い電気的刺激——偽の笑い」とあり、デュシェンヌ自身この表情の人為性を鋭く意識していたことが分かるのだが、しかし、デュシェンヌのこの研究を支えていたそもそもの動機が、あらゆる人間の表情の類型は、一つないしせいぜい二、三の筋肉の運動によって生み出される、というものであったことは確認しておく必要がある。人間の身体の各部位のなかでもとりわけ顔面は、内面の表出のためのスクリーンとして特権的な地位を占めているのだが、そうした表出作用も、内面との調和のうちに作り出される顔貌全体の連続的な変形というよりは、たかだか二、三の筋肉の断片化された運動によって媒介されているにすぎない。そのような想定にしたがってデュシェンヌは、内面の表出として生み出されるのと同じ表情を、電極を外挿することで作り出そうとしているのである。こうしたデュシェンヌの着想と、それにしたがって生み出された写真イメージ群に、心と身体の媒介性をめぐる認識論的な布置が大きく切り替わっていく徴を認めるとするならば、今日私たちは、そうした認識論的変容のどのような局面を迎えようとしているのだろうか。

 そんなことを想像してみたくなるのも、デュシェンヌの写真に原型をたどることのできる人為的な笑顔のイメージが、ここ数ヶ月ばかりのあいだに日本のメディアを流通する視覚表象において反復されることで、一定のコンテクストを作り出してきているように思われるからだ。すなわち具体的には、5月末に封切られた映画『僕の彼女はサイボーグ』における綾瀬はるかの笑顔、そして、4月から6月にかけて放送されていたテレビドラマ『絶対彼氏。』における速水もこみちの笑顔のことである。一方では、さえない大学生ジローの身を守るべく未来から送り込まれるサイボーグの「彼女」、その他方で、失恋したばかりの派遣社員梨衣子のもとに送り届けられる「理想の彼氏」型ロボット。きれいに相似形を描く物語設定のもと登場する二体のサイボーグないしロボットの笑顔は、その口もとがデュシェンヌの「偽の笑い」を正確になぞっている。この場合、これらのぎこちないとってつけたような笑顔は、その登場人物が人間ではなく機械であることを示す標識として機能しているのであり、作品世界の大雑把な輪郭をあらかじめ知らされている視聴者はこの記号性を即座に読みとるはずだ。すなわち、デュシェンヌがそうしたようにたかだかひとつふたつの筋肉を収縮させることによって作り出されるにすぎないこの表情の背後に控えているのは主体性や精神性といったものではなく、せいぜい画一化された信号を人工繊維に伝えるCPUのごときものだろう、と。演技のぎこちなさはこのように文脈づけられることで、サイボーグ的形象のための真に迫る演技へと反転するのであり、ついでに言えば、こうしたサイボーグ的笑顔という記号の読解に向けて、私たちはアイドルユニットPerfumeの3人がロボットめいたダンスを披露しながら浮かべる笑顔ですでにリハーサルしてきていたわけである。

 けれども、これらのサイボーグ的な笑顔の背後に送り返されるべき主体らしきものがないように見えること、そのようにして確保される人間と機械との峻別をもって安堵することは、これら両作品がともにサイボーグ/ロボットとの恋愛を主題化している以上、そう簡単には許されていない。ぎこちない演技から真に迫るサイボーグ的演技への反転は、物語世界の内部に折り返されて、人間らしさと機械らしさをめぐるもうひとつの反転をもたらしているように思われるのだ。それはつまり、ぎこちないからこそ、不器用だからこそ人間的に映るという逆説であり、こうした反転的論理構造のなかで、人間と機械の対比において機械の側に割り当てられたはずの「ぎこちなさ」という属性が、人間の側へと回帰してくるのである。そのことは、新型の恋人型ロボットが速水もこみち演ずる旧型ロボットに勝負を挑む『絶対彼氏。』第8話に見てとりやすい。ひとりの女性の愛を勝ちとるのはどちらか、というこの対決において、旧型ロボットの「一直線」な愛情表現を尻目に、高性能の新型ロボットはより押し付けがましくない仕方で効率的に梨衣子の関心を自分の側に向けていくのだが、その効率性ゆえに墓穴を掘ることになる。この場合、旧型ロボットの不器用さこそが、恋の競争という局面のなかで、「かけがえのない存在」、すなわち単独性という性質を帯びるにいたり、人間的属性の側へと転じていくのである。同じようにして『僕の彼女はサイボーグ』においても、綾瀬はるか演じるサイボーグの人並みはずれた怪力や奇矯な行動こそが彼女の単独性を構成しており、ひるがっては主人公にとっての——そして主人公を経由して視聴者にとっての——彼女の魅力となっている(常軌を逸していることがかえって人間的魅力になるこうした物語構造は、『猟奇的な彼女』[2001]以来反復されてきたクァク・ジェヨン監督の主題である)。

 ロボットとの恋愛は可能か。サイボーグと心を通わせることは可能か。とはいえ、こうした両作品の主題が、機械と人間をめぐる存在論的な問いを提起することは決してない。すなわちここで私が念頭に置いているのは、フィリップ・K・ディックや一連のサイバーパンクの作家たちの形而上学的なSF作品のことであり、それらの作品においてはサイボーグとはどのような存在か、という問いかけは、ひるがえって人間という存在の規定をも問いなおす結果となるのである(人間は機械からどのように区別しうるのか、人間にあって機械にない属性とはなにか、etc.)。『僕の彼女はサイボーグ』や『絶対彼氏。』には、このようなかたちで人間という存在の規定を根底から揺るがすような問いかけはない。たとえ、サイボーグ/ロボットが徐々に感情や意志らしきものを持ち始めることが物語の展開のなかに書き込まれていたとしても、そのことによって人間と機械が存在論的な意味で同じ境位に立つことは、最終的には回避されているように思われるのだ。どのようにしてか。もちろん、アイザック・アシモフのロボット三原則のように、素朴な規約主義的手続きでロボットを人間よりも下位の存在として位置づけて満足しているわけではない。おそらく存在論的な問いは、なにか巧妙な仕方でコミュニケーション論的な問いへと移し替えられているのであり、そのために、人間と機械の存在論的な区別を回避するかたちで齟齬なく物語を閉じることが可能になっているのである。

 例えば『僕の彼女はサイボーグ』の物語の序盤から中盤にかけて延々と続く、主人公ジローとサイボーグの「彼女」が「心を通わせていく」過程を描いた一連のシーンを思い起こしてみよう。なけなしのシネフィル的感性をも台無しにしてしまう、緩慢としか言いようのないこれらのシーンをなぜこの映画は必要としているのか。もちろん、こうした問いに対しては、それはこの映画が結局のところ、未来から来たサイボーグの彼女という設定を借りたラブストーリーだから、と答えておくこともできる。しかし、それにしては過剰にすぎるこの映画の結末から振り返ってこの作品全体がひとつの問題を構成していると捉えるならば、ジローとサイボーグの一連のやり取りが暗黙裏に遂げている操作は、サイボーグという存在をめぐる問いを、サイボーグとのコミュニケーションの問題へと移し替えることなのである。そのことは、ある決定的な局面でジローが発する「私の心を感じることができるって言ってくれたらいいのに」というセリフにもっとも明確に定式化されている。その後のストーリー展開で発話者を入れ替えながら何度も反復されるこの命題で問われているのは、相手の心を感じることができるかどうか、ではない。そうではなく、相手の心を感じることができると発話できるかどうか。つまり、サイボーグが心を宿しうるかどうか、ではなく、心を宿しているかのように振る舞うことができるかどうかが問われているのだ。このチューリング・テストめいたねじれた言語ゲームにおいて、存在論からコミュニケーション論への移行は完了する。サイボーグと人間の存在論的差異への問いかけは、恋愛コミュニケーションの成立可能性という問題に吸収される。そして、恋愛というコミュニケーションにおいて他者に向けて想像的に投影される「心」の宙ぶらりんな状態を外側から埋め合わせる操作を、周到にもこの作品は忘れていない。

 映画の結末部、未来というユートピア的な時間の位相で急速に、そして奇想天外に進行し、現在という時制で進行してきたナラティヴを徹底的に書き換えてしまう展開を、おそらくそのように理解するべきである。サイボーグの「彼女」が製造される未来よりもさらに先の未来、すでに機能停止した「彼女」を、「彼女」とそっくりな少女がオークションで競り落とす。「彼女」の身体に保存されていた記憶をすべて追体験した少女は、ジローに特別な感情を抱くにいたり、過去という時制にさかのぼってジローのもとに現れる。かくして映画冒頭、回想シーンとして提示されるジローと「彼女」の最初の出会い、ジローが「彼女」に恋する最初の接触の、そのジローの気持ちの宛先は、サイボーグではなく生身の人間だったことが明らかにされる。手紙は誤配されることなく宛先に届く。そして、身を挺したサイボーグに救出されたジローが、現在という時制で人間の「彼女」とともに暮らしていくことが暗示されて映画はエンディングを迎える。

 『絶対彼氏。』の場合、梨衣子と彼氏型ロボットとの恋愛の成就は、ロボットの予定外の短命によって阻まれて、その結果、平行して進んでいた人間との恋愛が成就することが示唆されてエンディングを迎えるわけだから、両作品は結局のところ同じ問題に同じ答えを与えていることになるのだが、それにしても『僕の彼女はサイボーグ』の解答の道筋は複雑で念入りである。しかし、その周到さは、周到さゆえの盲点を作り出さずにはいないだろう。映画の冒頭、サイボーグ的笑みをたたえてジローのもとに登場する「彼女」。デパートの女性服売り場で、夜の街頭で、画面を水平にまっすぐ横切りながら頭部のみを正面に向ける彼女の笑顔から、作品タイトルを知らされて映画館の暗闇にたたずむ観客は、サイボーグ的記号性を正確に読み取っていたはずである。映画のラストにもう一度繰り返されるこのシーンで、観客は、この「彼女」がサイボーグではなかったことを学ぶ。多くの観客は戸惑うはずだ。なぜジローの恋愛感情の宛先は、サイボーグから逸らされて人間へと差し戻されなければいけないのか。

 サイボーグか人間かなんてどっちでもいい。おそらくこれこそが、存在論がコミュニケーション論へと転位した結果もたらされるもっともラディカルな帰結である。そして、もはや作品のナラティヴ構造内部には定位しえないこの無関心ゆえに、サイボーグ的笑顔は着地点を持てず浮遊し続けることになるのだ。

『僕の彼女はサイボーグ』

監督・脚本:クァク・ジェヨン
製作:山本又一朗、チ・ヨンジュン
撮影:林淳一郎
美術:丸尾知行
照明:金沢正夫
録音:小原善哉
配給:ギャガ・コミュニケーションズ
出演:綾瀬はるか、小出恵介、桐谷健太、吉高由里子、斉藤歩、田口浩正、遠藤憲一、小日向文世、竹中直人、吉行和子

2008年/日本・韓国/120分

02 Aug 2008

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