イメージを紡ぐエクリチュール──『ゆれる』西川美和監督合同インタビュー

インタビュー
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Introduction

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 恋人はまだ描けない。そう語る西川美和監督の言葉は、私たち観客にとっての幸福を意味するのかもしれない。生まれつきの詐欺師のような兄と真面目で正義感が強い教師の妹のコントラストのうちに、熟年サラリーマン家庭の崩壊を描いた長編処女作『蛇イチゴ』(2002)。リストラされた事実を隠すために、父親はサラ金に手を出し、家族を破産に追い込んでしまう。そんな一家の主が、黙って首にシャワーを流し続ける姿を、浴室の開け放たれた扉からふと目にする妻。彼女の視線を借りて、キャメラはうなだれた後頭部から、たるんだ下腹、風呂イスの上で動かない臀部を映し出し、画面は妻の横顔に切り替わる。表情を変えず、じっと見開かれた彼女の瞳には、安易な感傷や同情はない。そうした感情を持つにはあまりにも深く疲れ、見知らぬ人の背中を呆然と見つめるかのような女、無力に背を向けるしかない男。社会的役割や長年連れ添った夫婦の通俗的な憐憫をそぎ取られた人々のあり方を容赦なく暴き出すのは、監督の冷徹な観察者の視線だ。

 故郷で家業のガソリンスタンドを継いだ温厚な兄・稔(香川照之)と東京で売れっ子写真家として華やかな生活を送る弟・猛(オダギリジョー)という対照的な兄弟を主人公に据えた長編2作目の『ゆれる』(2006)。本作では、若手スター俳優に対する女性的なファンタスム、疑似恋愛に誘う仕掛けは排除され、ある出来事をきっかけに、ふたりの「血のつながり」の自明性、欺瞞性が容赦なく問いただされる。作品前半、兄弟の幼なじみの智恵子(真木よう子)が吊り橋から姿を消した後、シャワーを浴びるオダギリジョーは、素肌に残る彼女の体の感触を思い出し、よろめきながら嘔吐する。シャワーの音とうめき声が響く中で、その背中をとらえるのは、共に重く沈痛な題材に挑む主演俳優を同志として、キャメラのこちら側で見守る映画作家のまなざしだろう。恋愛関係が、結局のところ、相手の他者性を直視する以前に解消することが可能であるなら、家族という関係性は、隠蔽されていた個々の欲望やエゴの真実が露呈し、取り返しのつかない亀裂が生じても、そこから容易に逃避できない「足かせ」にもなり得る。『ゆれる』は、血縁というものが内包するあらゆる束縛の極限に迫り、主人公たちを、もはや互いに兄と弟と呼び合うことができないような地点にまで追い詰めた後、ふたりが改めて静かに向き合う、ささやかな救済の一瞬までを、弛緩を知らない濃密さで描ききる。一見、何気ないダイアローグに仕組まれたドラマツルギー、二世代に渡る兄弟の確執が次第に浮上してくる重層的な構造。そして、ここには、上述の男たちの背中のように、心地よく観客の虚を突くような瞬間がいくつもある。こうして、何事もなく住まうことができるはずの日常風景から、鮮やかに切り取られた映画的時空間の断片は、見る者の倫理観や感性に対して、登場人物が発言する以上の雄弁さを発揮する。それは『ゆれる』が、運命的な何かがあまりにもあっけなく発生してしまう現実の残酷さを果敢に引き受け、あっけないがゆえに宿命的な映画の美、フィクションの力を獲得しているからだろう。

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 実に「骨太な」作品の印象とは裏腹に、合同インタビューの会場に現れた西川美和監督には、ふんわりと柔らかな空気が漂う。大きな瞳が笑顔に輝くと、監督という職業に付随しがちな、どこか「独裁的な」イメージはかき消されてしまうし、今年のカンヌ国際映画祭全体において、唯一の日本映画長編作品として「監督週間」部門に選出された『ゆれる』の「新進気鋭の」映画作家、という枕詞もいかめしく聞こえてしまう。だが、こちらの質問に真摯に聞き入り、じっくりと選ばれた言葉で答えが返されるうちに、確固たる映画作りのヴィジョン、監督としての厳格なモラルは、もはや疑いようのないものとして伝わってくる。これまでの長編2作に共通する兄弟(兄妹)という設定が要請される理由、ベストセラーの小説や漫画の映画化が日本映画の新作の大半を占める中で、なぜオリジナル脚本にこだわり、ノベライゼーションまで手がけるのか、そして、なぜ西川作品にいわゆる「芸達者」なプロの俳優が集まるのか──以下、いくつかのキーワードによって、『ゆれる』をめぐる西川美和監督のポートレートを描く試みである。(インタビュー協力:シネカノン、河内晋平、木村奈緒、坂本洋一、牧園憲二)




カンヌ、「監督週間」

(カンヌ国際映画祭正式)コンペの、非常に選ばれた人しか入場できないというようなあの華々しさに関しては、正直私自身はちょっと違和感を感じました。映画の中に登場させているような市井の人々は見にきていないはずだし、はっきり言ってちょっと自分の中には反発心がありました。そういう意味で「監督週間」というジャンルは、もともとコンペに対しての反発組織という成り立ちなので、そこに選ばれたのはものすごく嬉しかった。だから上映される場所もコンペの劇場に比べると小さいし、華々しい入場もないけれど、私自身のスタンスとしてもあっているように思えたので、あの作品がそこに選ばれたというのは、すごく嬉しいと思いましたね。
実際に行ってみると、もう街全体が映画を中心に回っていて、世界各国の人間が映画を見るため、買うために奔走している。日本でひとりシコシコ脚本を書いていたりすると、自分のやっていることに意味があるのか、誰が映画なんか観たがっているのか、とすごく不安に潰されそうになるんですが、カンヌに行って世界の人がこれだけ映画というものを欲していて、映画というものを要求しているんだという姿を目の当たりにした時、「ああ、映画を作っていていいのかな」と勇気付けられた気になりました。



キャスティング

──映画作りに対して、徹底的にまじめな人がいい。
私自身、この作品の主人公には相当の情熱をかけて取り組んだので、映画作りに対して徹底的にまじめな人に引き受けてもらいたい、という思いが強かった。それがキャスティングの最大のポイントでした。いろんなスタンスの役者さんがいると思いますが、このふたりだけは自分と一緒に作品作りをまともに見据えるタイプじゃないと乗り切れないだろうと。そういうスピリッツみたいなものは不思議とスクリーンにはにじみ出るもので、香川照之さんもオダギリ(ジョー)さんもそれに関しては間違いないだろうというのは感じていたんです。弟の猛という人物は、地方を捨てて都会に出てきて、故郷の環境とは無関係なジャンルで脚光を浴びて、華やかな生活をしているけれども、もともと持っていたゆがみとか屈折がなくなっているのかといえば、実はそれをずっとひきずっているというキャラクターなんですね。そういう部分がいわゆる今、日本映画で軒並み主役を張っているオダギリジョーさんを見ていて、ちょっとだぶる部分があった。スターでありながら、何となくそこに座りの悪い感じを覚えていたり、それへの捉え方が歪んでいたりというものが感じられる。彼ならばこの役を適格に把握してくれるのではないかという期待を持っていたのですが、実際オダギリさんの把握力、理解力というのは私の認識を超えている部分がありまして、逆に演出をふくらまされました。
香川さんは、これだけの設定でこれだけの役をできる役者が、香川照之以外には思いつかなかったのですが、意外に香川さんの方が熱烈に「この役は僕そのものだ」ということを再三、いまだにおっしゃっていて、「自分自身の、かろうじて俳優という仕事をすることで押さえきれている、自分の暗部や悪意を表現してくれているから、すごく言い当てられている」というコメントをされていました。



兄弟、奪うものと奪われるもの

 私は、恋人はまだ描けないですね。恋愛というジャンルはなかなか食指が動かなくてね。
今回も、原案になったのが私の夢だったのですが、その中では自分と男性のお友達との関係性の話だったんです。だけど男女の友人関係というのは、その距離感の持ちかたは十人十色だし、お客さんに見せた時に、その説明に時間がかかると思った。
また、男女であることでお客さんはそのふたりが恋愛にもつれるんじゃないかということを期待するだろうし、でも私が描きたかった関係性の難しさは男女のそれではなかったんですね。だから最初から「これは同性同士の話にする」というのは大前提として決めてありまして、それをなぜ男にしたかというのは、それは私自身未だ謎なんですけれどね。なぜか男性の方が書きやすい。なぜでしょう。あともうひとつ、この原案とはまた別のテーマとして、奪うものと奪われるものというふたつの対比する人間関係のドラマをやってみたいなと思っていたんです。人間関係においていつも得する方は得しっぱなしで、損する方は与えっぱなしになって、それがまるで役割かのように習慣化することは、よくあることではないか、そのふたりの関係性と、底辺に映る感情を映画で描きたいと。夢で見た原案とそのテーマとを合わせて考えた時に、そういった役割というものがきちんとパターン化していて、しかも多くのお客さんに何の説明もなく分かる関係性といったら兄弟だろうと思ったんですね。
だからもともと「兄弟とは何か」を問おうとしたわけではなくて、物語を運ばせるために最もやりやすいモチーフを選んだというのが出発点なのです。ただ奇しくも血の繋がった兄弟というのを主人公にしたために、家とのつながりとか家族とのつながりだとか、また周辺の家族の存在がいやおうなく付随して浮かび上がって来る。「家」というものの下にある家族的な絆とその奥に眠っている矛盾や不自然さ、それでも断ち切れないお互いへの煩わしいくらいの愛情……というものは、書けば書くほど奥深くて、自分自身、とりくんでいて非常に魅力的だし面白い。



人とつながること、その脆さ

 やはり、家族とも友人とも大切な人とも確実につながっていたいと思うし、相手を全面的に信頼していたいし、理解していたいと思うけれども、そうありたいと思っていても、うまく行かない、ということを人生の局面、局面でみんな経験していると思うんですよ。
この兄弟もお互いを貶めようとして生きてきたわけではなくて、お互いに対して悪くしないようにと思っているんだけど、ちょっとしたずれや誤解で、ずれてく悲劇なんですよね。そういう明確な悪意ではないものによって人間の関係性は、とてももろく崩れることがある。ただ、それでも人は人とつながりたいという本能的な欲求を捨てられないし、捨てずにいてもらいたいと私自身も作者としては思います。つながりたいという意志も、また自分のことをかばいたいというエゴも含めて、人間が持っている弱さや、業みたいなものを描いていきたいんですよね、映画で……。何でしょうね、私自身はそんなひどい体験があったわけではないんですが、でもまぁ屈折してるのかな、わからない(笑)。



「ボクシングのラウンド」のように──刑務所での面会シーン

面会室のシーンは2シーンあるのですが、いずれも1日ずつ撮っていて、カットもいくつもに割っています。その日の最初に、シーンのお芝居を通しで見せてもらうのだけど、ふたりはその時点でほぼ90パーセント以上の完成度でぶつけてくるんですよ。だからあとは私と香川さんとオダギリさんの趣味の世界と言ってしまえば変ですが、あとどれくらい、何かの調味料を加えると、どういう味が出るかというのを探ってみるという作業です。一見ハードな現場に見えるかもしれないですけど、すごくみんなリラックスしていたし気持ちが良かったです。ただ、さすがにあのシーンはカメラが回り出すとすさまじかった。ワンカットごとがボクシングのラウンドみたいで、でもカットをかけると非常にお互い紳士的になるという雰囲気。本当にそばで見ていて面白かったです。全員、怖がってました。オダギリさんも、とにかく怖いと泣きそうになってましたね。



脚本、サスペンスの「さじ加減」

橋で起きた事を、弟が見てる。その弟が見た内容を観客に見せるかどうかというところが、実は一番悩んだことなんです。当初は観客にすべて一部始終を見せて観客は事実をすべて把握した上で、たががはずれていく兄と、自分の記憶に踊らされていく身勝手な弟を客観視する、という構造をとっていたのですが、やはり、そこで露になっていくドラマが非常にヘビーなので、何らかのエンターテイメント性をのせないと、観客が途中でギブ・アップしてしまうのではないかと思ったのですね。そこで、謎を残して弟と同じ視点で事件に翻弄されていくというサスペンスフルな構造を選択するのですが、ただサスペンスフルな作りにすると謎解き自体が気になり始めますよね、今度は。
本来のサスペンスっていうのは、謎の答えはAかBなのか、事故か事件なのかと探っていたら、最後に全く奇想天外なラストに行きつく、というのが定石なんだと思いますが、私はこの物語において、その謎自体はどうでもいいことだと思っているので、あまり「サスペンス」に傾けすぎると多分観客の欲しがるラストにはなっていかないんですよね。
人間の移ろいであったり、ここで露になる内面のドラマであったりという主題を外してサスペンスに没頭されることが一番恐かったので、サスペンスフルなんだけど完全なサスペンスになり切らないようなさじ加減というのに非常に時間をかけました。それはたくさんの人に読んでもらいながら、プロデューサや企画で関わってくださっている是枝(裕和)さんにも──20稿くらい書き直しをしているんですが──その都度読んでもらって、分かりづらいところとか面白くないところがあれば言ってもらって書き直すという作業を続けて、助けられながら、やったと思います。翻弄されて、道に迷うこともありましたけどね(笑)。



書くこと──オリジナル脚本、ノベライゼーション

──小説家は言葉の表現のプロ。文字でしかできないことで勝負をされているのに、それを安直に映像化は出来ないのじゃないか、と思う。
私は受け手の映像で表現できることと、文字で表現できることにはたくさん違いがあると考えているから……。基本的に映画というのは、視覚と聴覚に頼るしかない。たとえば人間は、顔の表情が全く変わらなくても胸の内で想いがいろいろめぐることがある。こういうのを映像で適格に表現するのはとても難しい。また映画というのは、時間の枠がある程度限られているので、2時間の中に家族の物語をおさめようとした時に、脈々とつらなる歴史やバックボーンなどを余さず表していくこともなかなか困難なこと。
映画のためのシナリオを書く時は、そういったバックボーンなどは最終的には表現し切れないとわり切りつつ、それでも物語づくりのために裏できっちり組み立てていくんですが、小説を書いたことでそういう埋もれていた裏の物語を思い切り語ることが出来た。自分にとってすごく楽しい作業であったし、これでもうやり残すことはないというところに落ち着けたという感じですね。



バンド、カリフラワーズとのコラボレーション

音楽は実は、ずいぶん早い段階からイメージをするんです。脚本を書く時には音楽が頭の中に流れていることが多い。カリフラワーズのナカムラさん[*1] とは、『蛇イチゴ』(2002)の前に知り合ったのですが、まだ物語が形になっていない時にでも、「こういう曲で始めたいんだけれども」なんて言うと、いつでもサンプルを聞かせてくれたりするので、ずいぶん助けられています。
音楽に関しては、映画作りの中で唯一といっていいほど、自分の趣味を投影している部分かも。そういう意味で、自分の趣味的ジャンルにカリフラワーズというバンドの音楽が合っていて、しかも作曲能力と多様性があるということでいつもお世話になっているんです。いわゆるライブバンドなんだけど、作品の中における音楽の役割というのを常に冷静にとらえている人達だと思う。本業の時とは別で、完全に「スタッフ」ですね。自分の歌を売り出そうなんてスケベ心はないしね。だから、音楽のミックスの作業の時は、ミキサーの録音部さんが、音楽をたてようとするのに、カリフラワーズのナカムラさんは「音楽が大きすぎる」といって下げるということがしょっちゅうです(笑)。映画作りはパートとパートの集合体の作業なので、そういう風にものを考えてくれる人とじゃないと組めない、という意味では私はすごくいいパートナーだなと思います。



監督として

(助監督についていた)是枝さんは、一般の人や子供、役者を使う時でも、シナリオを最後まで渡さなかったり、そういう方法で撮られるんだけど、やはりそれは是枝さんがドキュメンタリーというものをきちんとテレビで経験されて、その対象者との信頼感を持ちつつ、その意図を明かさないという方法論を自分できちんと作り上げられたから出来る事で、一歩間違えるとそういうやり方はとても暴力的なことになりかねない危険をはらんでいる。共犯関係にない人を撮る、ということをする土台が私にはないんですよ、映画の助監督から始めちゃったから。やるんであれば、全ての意図を俳優と共有しながらやりたいなっていうのがあるので、それが出来る俳優とならば、かろうじて演出ができる、ということかな。
あとは、やっぱり、書くということが私にとって、映画作りのプロセスの中で純粋に一番楽しめる作業なので、それは失いたくない。だからその結果仕上げた脚本を俳優さんが、納得して、気に入ってくれてやってくれるのであれば、その方法論は続けていきたいと思いますけれどもね。
監督というのは本当に端で見ていると大変で、やっぱり大人数を動かす訳だから、ずっと自分には無理だと思っていました。例えば森田芳光さんの作品(『黒い家』[1999])のお手伝いをさせていただいた時は、監督のキャラクターやカリスマ性みたいなものは途轍もなく力を持っていて、子供みたいにわがままを言うのに、みんな全員が監督の為に動きたくなってしまうという……。そういう魅力は、もう生まれ持ったもので……。やっぱり長くやってらっしゃる監督というのは、人の心の操作力、パフォーマンス力等々、人並みを外れたものがあると思うんですね。そういうものが自分に備わっているとはとても思えないから、やはり監督をするということには躊躇があったし、今も戸惑うことが絶えないですよ。
なぜ映画を作っているかというと、やはりそれは映画に感動してきたから以外の何ものでもない。自分と映画との関わり方を振り返ってみると、文化や歴史の全く異なる遠い国で作られた作品に描かれた人間のドラマの中に、自分が抱える小さな問題や悩みに共通するものを見出すことで、世界を広げられたり、救われてきた。だから自分がみせられてきた様々な映画に倣うように、私も観客が自分自身をスクリーンの中に見出すことのできる映画を作りたいな、とは漠然と思っています。



脚注

*1
1997年にナカムラが結成。2001年より現在まで、5枚のアルバムをリリース。西川監督作とは『蛇イチゴ』(2002)、「女神のかかと」(オムニバス映画『Female』[2005]の一篇)につづく3作目のコラボレーション。

西川美和 Miwa NISHIKAWA

1974年広島県生まれ。大学在学中より映画製作を志し、『ワンダフルライフ』(是枝裕和監督、1999)にフリーのスタッフとして参加。『M/OTHER』(諏訪敦彦監督、1999)、『黒い家』(森田芳光監督、1999)、『ディスタンス』(是枝裕和監督、2001)などの作品で助監督を務め、『蛇イチゴ』(2002)で監督デビュー。他監督作としてオムニバス『female』(2005) の一篇「女神のかかと」、オムニバス『ユメ十夜』(2006年秋公開予定)。



『ゆれる』

原案・監督・脚本:西川美和
撮影:高瀬比呂志
編集:宮島竜治
音楽:カリフラワーズ
出演:オダギリジョー、香川照之、新井浩文、真木よう子、木村祐一、蟹江敬三

2006年/日本/119分

19 Jul 2006

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