ルビッチ流結婚生活のススメ──E.ルビッチ『陽気な監獄』
泥酔して朝帰りした夫が妻のご機嫌とりに新しい帽子でも買っておいでと彼女の手に紙幣を握らせる。もちろん彼女はすぐさまブティックに直行し、おそらく以前から目につけていたはずの流行の帽子を被って手鏡を覗くだろう。スクリーンの表層に亀裂が走るのは次の瞬間である。その時、私たちが鏡の中に目にするのは帽子を被った彼女の姿ではなく、こちらに向って手招きをする片眼鏡の紳士の顔である。画面に刻まれた外傷的イメージともいうべきこの映像からルビッチ的ゲームの開始が告げられる。もちろん鏡の中の映像は幻覚でもなんでもなく、店の外でタクシーを待っている男がショーウインドー越しにこちらを覗いているにすぎないことは続く画面によってすぐに示されるのだが、屋内と屋外、セットとロケーション、男と女をたったひとつの手鏡によって一瞬にして結びつけてしまうルビッチの天才にはやはり動揺させられる。
乱痴気騒ぎを起こしたために留置所から服役命令を受けた夫の身代わりにその妻に思いを寄せる別の男が自ら拘留されるというヨハン・シュトラウスのオペラ『こうもり』から想を受けたこの『陽気な監獄』(1917)の物語は、アメリカに渡ったルビッチが約10年後に『陽気な巴里っ子』(1926)で再び変奏することは周知の事実だが、彼がその「間違えられた男」の物語をヒッチコックのような悲劇としてではなく喜劇として撮るにあたって、いくつもの分身=交換=反復が繁茂する物語として提示していることは興味深い。そしてその分身=交換=反復が交差するゲームの出発点がまさに先に述べた鏡像のイメージなのだ。
ヒロインの夫とその身代わりになる紳士の分身性はふたりが身につける片眼鏡によって強調されている。初めに登場した時には片眼鏡など身につけていなかった夫はその身代わりが留置されている間、あたかも彼の容姿を無意識に模倣するかのように、招待を受けた舞踏会で片眼鏡をかけるのだ。そして彼の傍にはそれを強調するかのようにやはり片眼鏡をかけた彼の悪友が控えている。そもそも彼が服役命令書を受け取ったにもかかわらず、ついつい舞踏会なんぞに来てしまったのは、この悪友が寄越した誘いの電報のせいなのだが、この文書はやはりクロースアップで示される服役命令書に次いで彼の許に届けられ、それと著しい対照をなす。この天国と地獄をわけるかのようなふたつの文書のそれぞれの効力に従って、一方は舞踏会へ、もう他方は留置所へと導かれ、同じ夜を別々に過ごすことになるのだが、その明暗を強調するかのごとく、両者はクロスカッティングで示される。
舞踏会が催される貴族の邸宅と留置所という社会的な機能が全く異なるふたつの空間を提示するうえで、ルビッチがその差異よりは空間としての相同性を際立たせているのは彼らしい悪ふざけである。両者はともに画面左側に階段のある吹き抜けの空間構造に設計されている。画面手前の広いスペースには、一方が華やかな衣装の招待客で埋め尽されているのと対照的に、他方は看守が腰掛けるベンチが寒々とした感じでぽつんと置かれる。しかしそれは両者の違いを際立たせるためというよりは、あくまでもその相同性に力点が置かれている。『陽気な監獄』というこの作品のタイトルが告げるように、ルビッチにあっては、監獄も気持ちの持ちようによってはそれなりに快適に過ごせる場所なのだ。実際、片眼鏡の紳士は同房の囚人たちと楽しそうに賭トランプに打ち興じていたではないか。この点において彼はブレッソンとは正反対の思想の持ち主だといえるかもしれない。ルビッチにとって監獄とはまさに出入り自由の空間なのである。
これらふたつの空間がクロスカッティングされることによって、本来別々であったはずの空間が渾然一体となり、ある種の祝祭性を獲得する。ここでのクロスカッティングは、ふたつの空間の間をグリフィス以来のラスト・ミニッツ・レスキューによって走破されるべき隔たりとして提示するのではなく、両者の相同性に基づいてそれらを通底したものとして提示する。仮にこの映画で大邸宅の扉を開くとそこに監獄があったとしても、さして驚きはないだろう。だからこそ、舞踏会の翌朝、泥酔した夫が通りで警官に呼び止められ、服役命令書を見られたがために留置所に入れられることになっても、彼はそれほど抵抗を示さないのだ。舞踏会と留置所の差異はルビッチ的人物にとってさほど深刻なものとは受け取られていない。両者の通底性は、ローラースケートを履いた少女たちが舞踏会のフロアで披露する円環運動のショットのすぐ後に、エミール・ヤニングスが例のごとく大袈裟に演じる看守が監獄内で泥酔して(!)目を回すクローズアップが繋がれることによっても明らかだろう。
さて夫が浮かれ騒いでいる間、その妻はじっと家で彼の帰りを待っていたのかというと全くそんなことはなく、艶やかな軽薄さともいうべきルビッチ的ヒロインの属性をやはり持ち合わせている彼女は、正装で服役しに行くと告げた夫の嘘(それにしてもルビッチの登場人物たちはなぜ揃いも揃って嘘つきばかりなのだろう!)を、彼が置き忘れていった悪友からの電報によってすぐさま見破るのだが、彼女が通りに落とした新品の帽子を届けるという口実で訪れた件の片眼鏡の紳士の誘惑から逃れ(彼は彼女に「夫として」別れのキスをしたいという目先の浅ましい欲望のために、彼女の夫の身代わりに、やってきた警官に連行されていかれるのだ!)、目のまわりを黒いマスクで被い、身分を偽り、夫の後を追って舞踏会に出かけるのだ。さらに夫妻の雇っている怠惰な雰囲気の女中もまた姉からの誘いの手紙(第三の文書)によって、やはり女主人のドレスを拝借して身分を偽り舞踏会に出かける。この時、自動車の後部座席に乗った夫と悪友、片眼鏡の紳士と警官、妻の三者がほぼ同じサイズの画面で順に提示されるのだが、前二者がそれによって分身=交換=反復を強調するのに対し、妻の画面の後に提示されると思われた彼女の分身ともいうべき女中の画面は、彼女が市電に後ろから乗り込む姿がロングショットで示されるだけで、見るものの期待を一瞬はぐらかす。しかしこのはぐらかしは語りの構造が要請するものであり、そこにあるべきはずであった彼女が自動車の後部座席に乗っている画面は、そんなことをすっかり忘れていた映画の終盤になって突如現れ、見るものを不意打ちしながら、一気に物語を締めくくりにかかるのだが、ここではそれにはふれずにおこう。
さて舞踏会で浮かれ騒ぐ夫は、まず自宅の女中によく似た謎の女を口説きにかかり、彼女の唇を奪うことに成功するのだが、彼の腕をすり抜け、高笑いをしながら彼女が姿を消してしまうと、後に残された彼はたったいま謎の女と口づけを交わしたばかりの自分の上唇を舌先で舐めてその疑問を氷解させる。何のことはない、やはりあの女は自分がすでに手を出したことのある自宅の女中だったのだ。彼の許から消えた女中はすぐさま裕福そうな老紳士をつかまえて、ここぞとばかりに普段口にすることもない上等なワインな料理を飲み食いする。夫が次に目をつけるのは後から会場に現れた黒覆面の美女なのだが、もちろん彼は彼女が自分の実の妻だなどとは夢にも思っていない。彼女を最初に発見する時、輪になって踊る女性たちに囲まれるように彼がその円環の中心に立っていることは、先に述べたローラースケートの少女たちの円環運動とあわせて注目に値する。彼女たちが形づくる円環の形象は、それよりもはるかに小さな円環である結婚指輪と対をなしているのであり、自分の妻であることも知らずに彼が彼女を口説くのに夢中になっている最中に、夫が独身と偽るために外したその結婚指輪を、妻はその懐からそっと盗み出すことに成功するのである。この点において、サイレント期のルビッチの代表作のひとつ『結婚哲学』(1924)の原題が"The Marriage Circle"であることは興味深い。彼の作品においては、「結婚」と「円環」は結びついており、それを端的に形象化するものが「結婚指輪」なのである。ただし未婚と既婚の境界線は、この映画での夫の振舞いを見ればわかるように、ただその左手の薬指にはめられた小さな円環を上下することによって呆気無く乗り越えられてしまうようなものであり、それは拘留と釈放の境界線の曖昧さに通じている(ルビッチの登場人物たちが結婚という一種の「監獄」から出たり入ったりする隙を絶えず狙っていることを思い出そう)。
さて舞踏会から監獄を経由して帰宅した夫の薬指から結婚指輪がなくなっていることに気づいた妻は彼を責め、その場に泣き崩れる。もちろんそれは彼女の計略で夫に気づかれないように彼女は舌を出してみせるのだが、彼を残して彼女がその場を立ち去った後、玄関のチャイムが鳴る。いぶかしがりながら彼が扉を開けるとそこには昨晩の覆面の美女がいるではないか。おろおろする彼を尻目に彼女はさっと彼から盗み出した結婚指輪を目の前に取り出してみせる。ああ妻がこれを見てくれたら! と嘆息する彼の前で、謎の美女ならぬ彼の妻は優雅な身振りでその覆面を外してみせるだろう。ルビッチの結婚喜劇の脱構築ヴァージョンともいうべきストローブ=ユイレの『今日から明日へ』(1996)のヒロインがやはりそうであったように、浮気な夫の関心を自分に引き戻すことなど彼女たちにとって容易いことなのだ。それにはちょっと「ファム・ファタル」の雰囲気を自らの身にまとわせるだけでいい。夫はそのトリックにころりと騙され、妻の魅力を(再)発見するだろう。ルビッチが教えるごとく、結婚生活には時々新鮮な刺激が必要なのである。
なお、この作品はクライテリオン版の『極楽特急』(1932)映像特典として収録されている。
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